戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第五十四回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(7)

1.モサデクと出光の出会い

 アメリカとイランの関係は現在最悪と言えるが、日本とイランの関係は悪くない。それには1953年の日章丸事件が関わっている。日本人は忘れても、イラン人はこの事件を忘れないのである。

 

在日本イラン大使館、「イランの人々は、過去、現在、未来を忘れない」

https://parstoday.com/ja/news/iran-i47699

 

 日章丸とは、出光興産の石油タンカーのことである。モサデク政権が危機に瀕していた1953年、この船が様々な苦難を乗り越えアーバーダーンの港へ行き、イランの石油を積んで日本に戻ってきたのである。

 

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イランからの石油を積み川崎油槽所に接岸した日章丸(1953年)

 第五十一回ブログでも述べた通り、イギリスはモサデク政権の石油国有化に激怒した。そのためイギリスは石油問題を国際司法裁判所と国連の安保理に提訴し、イランが法的に石油を海外に売却できないように根回しをした。同時に、各国のタンカーがイラン産石油を買い付けしようとすれば即刻拿捕できるよう、ペルシア湾に海軍を派遣していた。

 これにより、西側諸国はイランの石油を買わなくなったので、イラン経済は悪化し、モサデク政権は窮地に陥った。政権は石油の価格を下げ、買い付けしてくれる商社を探したが、なかなか見つからなかった。その中で、イタリアとスイスの共同出資によるタンカー、ローズマリー号がイラン産の石油を積載するまではできたが、帰路のアラビア海でイギリス軍に拿捕されてしまった。

 こうした状況下では、完全封鎖は成功したかに見えた。しかしこの時、モサデク首相や側近たちとイランで石油交渉をする日本人がいた。出光興産専務の出光計助であった。彼は出光佐三の弟であり、兄であり社長である佐三の命を受け、パキスタン経由でイランに極秘入国していたのだ。

 

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出光計助と出光佐三 1957年

 最初、モサデク政権は出光興産のオファーに対して懐疑的であった。IDEMITSUという会社名は聞いたことがなかったし、実際当時の出光興産は中小企業であり、世界の名だたる石油メジャーの傘下にはなかった。普通に考えれば、イタリアとスイスの共同出資によるタンカーでも不可能なことが、日本の小さな石油会社にできるとは思えなかった。

 しかし、出光という会社は単なる石油会社ではなく、社長は常日頃から「金の奴隷になるな」と社員たちに言っていた会社であった。肩書や資本の規模がなくても、出光にはおもしろいエピソードがたくさんあり、社員は自分の会社のユニークさについていくらでも話すことができた。これは大きな無形資産であった。

 通常なら、イラン政府は日本から来た無名の石油会社との面談を、時間の無駄として切り捨てることができただろう。しかし、出光計助には自信があったのかもしれない。確かに、無名の石油会社がいきなり契約の話を持ち出しても無理がある。しかし、出光はおもしろいと思わせることができるなら、契約の締結以前に、会って話すことに価値を見てもらえる。

 計助が自信を持っていたのは、会社の規模や名声ではなく、内容と歴史だったのであろう。モサデク政権はIDEMITSUという聞いたことのない会社に対して、追い返すのではなく、その話に耳を傾けるようになる。

 

2.海賊と呼ばれた男

 出光という会社は石油メジャーではなかったが、不思議な会社であった。モサデクが出光計助と初めて対面したのは1953年であるが、それから8年前の1945年、出光興産は倒産寸前の会社であった。1945年の敗戦により、石油事業はGHQが全て統括することとなった。GHQは石油を戦略物資に指定し、GHQの許可なく日本企業が販売することを禁じたのである。出光は石油メジャーの傘下ではなかったので、販売許可は得られなかった。

 石油屋が石油の販売を禁じられた時点で倒産の危機だが、さらなる危機が出光に降りかかってきた。戦時中の出光の主力商品は、満鉄用の機械油であった。極寒の地、満州で車軸油が凍結し、満鉄は運行のトラブルが相次いでいたが、出光の開発した凍結しない油のおかげで、そうしたトラブルが激減していたからだ。出光はこの功績により、満州帝国にとって欠かせない企業となっていた。

 しかし、敗戦により満州は消失した。この時、出光の海外社員は約800人いたが、全員が日本に帰国することとなった。役員たちは全員を本社でかかえこむことは不可能だと考え、リストラを訴えたが、出光佐三は全員を本社復帰させることを決断した。おもしろいことに、この時佐三には具体的な方策がなかったとのことである。石油屋が石油の販売を禁じられ、かつ海外から戻ってくる800人を食わせなければならないが、具体的方策はない。しかし、一人も解雇しないと彼は決断したのである。

 出光はその後、様々な事業に手を出し、農場経営、漁業、醤油や酢の醸造、印刷業などを行ったが、石油屋の素人商売はうまくいかなかった。しかし、様々に手を出した事業の中で、ラジオの修理業はうまくいった。当時、日本国民のほとんどはテレビを所有していなかったので、ラジオが主要メディアであった。しかし、戦災により多くのラジオが故障しており、新品を買う余裕のある人はほとんどいなかったので、修理の需要はあったのである。

 これが、出光が後に巨大な石油会社となる礎となった。ラジオの修理業がうまくいくとなると、佐三は銀行から莫大な金を借り、全国に50カ所の修理店舗をたてた。これが後に石油業に復帰する際のガソリンスタンドの拠点となるのである。リストラをしないために無理やり異業種に手を出した結果、それが本業発展の礎となったのである。

 こうして出光が異業種で格闘していた時、本業である石油業に復帰できるチャンスが突然巡ってきた。とは言っても、石油の販売業ではなく、「底さらい業」である。GHQが旧海軍のタンクの底に油が残っていることに目をつけ、この油の汲み取りを日本の石油業界に命じたのである。

 とは言っても、GHQから販売許可を得ていた企業たちは、この作業を請け負わなかった。タンクの底に入って作業をすることは、中毒、窒息、爆発の危険性があり、悪臭の中で油まみれになって行う作業は誰もが嫌がったからである。それゆえ、大手の石油会社は皆、既得権益で満足していたため、あえてきつい仕事を請け負う理由がなかった。

 この中で、喜んで仕事を請け負ったのが出光であった。石油販売業ではなかったが、この仕事を請け負えば、広い意味での石油業界への復帰である。約1年半の「底さらい業」により、出光興産は2万リットル以上の汲み取りに成功した。これが石油業界とGHQに強烈な印象を与え、1949年にGHQから石油元売業者として認められるきっかけとなった。こうして「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉となった。

 

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出光社員によるタンク底汲み取り作業

 ただ、GHQから販売業の許可を得た後も、佐三は石油メジャーの傘下になることを拒み、独立路線を望んだ。他の大手の石油会社は皆、欧米の石油メジャーの傘下にあり、質の低い油を高い値段で買わされていた。しかし、当時の日本にはそれしか油を手に入れる手段がなかったため、大手会社はメジャーの奴隷となって消費者に流していれば、生活は安泰だった。

 もちろん、こうした石油業界の姿は、常日頃から「金の奴隷になるな」を口癖としていた佐三からすると、納得できないものであった。彼からすれば、こうした石油業界に仲間入りして、同じ釜の飯を食うことは虫唾が走るほど嫌なことであった。そのため、欧米の石油メジャーとも日本の石油業界ともつきあわない独自路線を歩むことを彼は決断した。

 ここから佐三は日本の石油業界から「海賊」と呼ばれる男となる。出光は自前のタンカー「日章丸」を駆り、自分で石油を探すことにしたのだ。はじめはロサンゼルスからの輸入に成功したが、アメリカでの石油買い付けはあっという間にメジャーの妨害にあい、断念せざるを得なくなった。日本の石油業界からは「ほら見たことか」と笑われたが、佐三は諦めなった。

 第一の矢がダメなら、第二の矢をメキシコやヴェネズエラに放った。それはパナマ運河を越えて中南米までタンカー一隻のみで買い付けに行くという無謀とも言えるような航路であったが、出光はこれを成し遂げた。しかし、そこにも石油メジャーの妨害が入り、断念せざるを得なくなった。石油業界は出光を嗤い、「海賊」と呼んだ。正規のルートを通さず、裏ルートから石油を取って来ようとする出光の姿は、日本の大手から見れば「海賊」に見えたのだ。

 しかし、佐三からすれば正規のルートは、欧米人の奴隷になるやり方に見えた。そのため、彼は「海賊」を諦めずに、第三の矢を放つことに決めた。それがモサデク政権下のイランであった。

 

3.反骨と反骨が重なり合う

 IDEMITSUという聞いたことがない日本の会社に対して、最初懐疑的であったモサデク政権は、最終的に契約することを決める。これは常識的に考えればあり得ないことであるが、もしかしたら、モサデクは出光計助の話を聞き、出光の独立独歩の精神に自分と重なるものを見たのかもしれない。反骨の精神に芯から共鳴できるのは、反骨の精神だけである。日本の石油業界から「海賊」と揶揄された出光は、イランの反骨から「人間」として認められた。

 しかし、契約を締結してもそこから課題は山積みであった。タンカーの航行は、日本とイラン、互いの国内法の遵守とともに、国際法にも違反しないものでなければならない。法の抜け道を通り、イギリスに知られないように書類は作成されなければならない。また、書類上の許可を得ても、正規のルートを通ればイギリス海軍に簡単に発見されてしまうため、独自のルートを見つけなければならない。

 湾岸には機雷が浮いており、海上は封鎖されている。軍艦に見つかれば即刻拿捕されるか、大砲で撃沈される。浅瀬を通れば座礁してしまう。マスコミに見つかれば、報道されてしまう。報道にのってしまえば、イラン政府から許可を得ても、日本政府に止められてしまうかもしれない。

 こうした数々の難題を乗り超え、航海上の危険個所の調査と独自ルートの策定を終え、1953年3月23日、日章丸は極秘裏に神戸港を出ることとなった。名目上の目的地はサウジアラビアで、船長と機関長以外は本当の目的地を誰も知らないという状態での出航となった。船は3月31日、マラッカ海峡を通過し、4月5日、日章丸は出光本社からの暗号無電を受け取った。

 

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日章丸(2代目)と新田辰夫船長

 船長の新田辰夫は、無電の内容を見なくてもわかっていた。それはサウジではなく、イランのアーバーダーンへ石油を積みに行けという指令である。ここで新田は船員を全員集め、この指令を伝えた。それを聞いた船員たちは驚くとともに、恐怖心を抱いた。イランのアーバーダーンが「アーバーダーン危機(Abadan Crisis)」と呼ばれる危険な場所であることは皆知っていたからである。動揺する船員たちを前に、新田はあらかじめ出光佐三から預かっていた檄文を読み上げた。

 

「今や日章丸は最も意義ある尊き第三の矢として弦を離れたのである。ここにわが国ははじめて世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の基礎を射止めるのである。各自、この趣旨をよく理解して、使命の達成に全力を尽くされたい。」

 

 船員たちは、戦後の苦しい時期でも社員をリストラしなかった佐三の態度を知っていたし、常日頃から反骨精神にあふれた佐三を目にしていたので、むしろこの危険な任務を前にしてモチベーションが上がった。「日章丸万歳! 出光興産万歳! 日本万歳!」という船員たちの声のなか、日章丸はアーバーダーン港へと向かうこととなった。

第五十三回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(6)

1.幻想のアメリカと数式のアメリ

 前回述べた通り、イランの独立を志したモサデクは、民衆の英雄から一転、犯罪者となった。国民に期待され、選挙によって首相となったモサデクは、逮捕され、投獄されることとなる。

 

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Mohammad Mosaddegh in court, 8 November 1953

 

 アジャックス作戦を実行した側からすれば、これは投資家たちの資金力の勝利であり、CIAの優秀な頭脳の勝利であり、またイエズス会の世界布教から積み重ねてきた侵略研究の成果でもあった。

 しかし、これは矛盾しているように見える。なぜなら、アメリカは民主主義の番人として世界に自己をアピールしている国家だからである。英国の抑圧を脱し、王様のいない民主主義国家として独立した自国の歴史を、アメリカ人は誇りにしている。また、ナチスドイツや大日本帝国という独裁国家を打ち負かし、それらを民主主義国家として生まれ変わらせたことを、アメリカ人は誇りにしている。

 つまり、民主主義はアメリカの自尊心の根幹であり、国家のアイデンティティである。だから、アメリカでは退役軍人は民主主義のために戦った英雄として尊敬され、野球の始球式においても日本のように芸能人がボールを投げるのではなく、名もなき退役軍人がマウンドに立つのである。そう考えると、アメリカ政府が行ったモサデク政権の転覆は、アメリカの誇りに逆行したものに見える。

 しかし、支配層からすればそれは矛盾しない。アメリカは貧富の差が激しい国であり、支配層と被支配層の格差ははっきりしている。ここでの民主主義やアメリカンドリームは、そうした隷属層に見せるための「夢」であり、差別と分断と格差が横行するアメリカにおいてはそうした「夢」が欠かせない。軍需産業が儲かるために貧乏人は兵隊になって欲しいという本音を言ってしまえば、国民は動かない。

 もともとアメリカで独立戦争が起きたのは、アメリカの金持ちたちが英国政府に税金を取られることを不満に思ったからである。つまり、事の発端は「金」の問題である。この国が常に「金」の問題で動いていることは建国以来変わらないので、時代が変わって20世紀になろうが、21世紀になろうが、そのことは変わるはずがないのである。

 つまり、金持ち層からすればアメリカの大衆が夢見る民主主義なんてものはどうでもいい。むしろ、そんなものは彼らの既得権益からすれば邪魔である。それゆえ、彼らからすれば自らの権益を犯す外国勢力は民主主義であろうが何主義であろうが敵であるし、自国の大統領であっても例外ではない。

 彼らがアメリカの大統領に望む人物像は、リターンをもたらす人物である。民衆によって選ばれたとか、大衆から尊敬を集める人物であるとか、そういった夢物語はどうでもいい。そいつが大統領になったら、果たしていくら儲かるのか。投資のリターンはいくらなのか。それが金持ちたちの思考様式なのである。

 リンカーンケネディが彼らによって駆除されたのはそのためである。また、民衆の英雄がアメリカの大統領になってしまった場合には、彼らのエージェントが必ず副大統領になっているのもそのためである。ウッドロウ・ウィルソンFRBの創設という売国法案に嫌々ながら署名してしまったのは、そうした駆除のシステムをはっきりと感じ取り、恐怖したからであろう(詳しくは第四回ブログ参照)。

 それゆえ、植民地が従うべき宗主国とは、民主主義国家としてのアメリカや夢としてのアメリカ、幻想のアメリカではなく、明確な数式によって成り立つアメリカであり、わかりやすく言えば「金持ち」としてのアメリカである。そのアメリカは「民主主義」というお題目には興味がなく、投資がいくらでリターンがいくらという数式にしか興味がない。

 現在の日本が従属しているアメリカも、そうした数式としてのアメリカであり、CSISはその数式の中身を明確化して日本のカポーに示すためのシンクタンクである。日本のカポー達はその数字の実現に尽力し、国家経営はそうした数字が飛び交う場として成り立っている。そのため、どちらの国も形式的には民主主義であるが、民衆の勝利には程遠い。

 

2.リターンとしてのイランの近代化

 モサデク政権が倒れた後のイランは、アメリカの数式にかなう国家、すなわち植民地となった。こうなると、アメリカは支援という名の投資を行うようになる。1953年までは総計で5900万ドルに過ぎなったアメリカの対イラン借款は、政権転覆以後の4年間で5億ドルにのぼった。

 これは一見、アメリカの損金のようだが、そうではない。アメリカが国家として支払う対外借款は、アメリカの税金が元手となって支払われるものであり、アメリカの金持ちが払うものではない。アメリカの場合、金持ちは税金をあまり払わない。アメリカの正義を夢見る一般国民が莫大な税金を国に払うのである。金持ちは国の隅々から集めた税金をもとにイランを支援し、イランにアメリカ製の武器を買わせることで、自分たちは儲けるのである。

 こうして、イランとアメリカの間には軍需産業同盟と呼びうる軍事同盟が成立し、投資家はアメリカの軍需産業に投資すれば間違いなくリターンが返ってくるというわかりやすい構図となった。こうしてアメリカの軍需産業はイランというお客さんに次々と最新鋭の軍事物品を納入するようになる(詳しくは第四十九回ブログ参照)。イラン政府も数式としてのアメリカの言いなりになってお買い物を続けた結果、1977年には国家予算の約40%が防衛費ということになった。

 また、数式としてのアメリカは軍事だけでなく、石油関係はもちろんのこと、電気、通信、建設、食品、その他消費物やサービスなど、様々な分野でイランに進出することとなった。パフラヴィー王朝もそれにあわせて「イランの近代化」という名目のアメリカナイゼーションを実行した。イランの街にはアメリカの軍人やビジネスマンが歩くようになり、バー、ナイトクラブ、ディスコ、ポルノ映画といった敬虔なイスラム教徒たちが眉をひそめる文化が流れ込んでくることとなった。

 スイスで少年時代を過ごし、イランの後進性を嫌っていたシャー(王)は、後進性の象徴として女性のヒジャブ(ヘジャブ hijab)を禁止し、土地改革や国営企業の民営化、婦人参政権の確立などの白色革命を行った。こうして、イランは近代化とともに農村国家から都市国家へと変わっていく。1956年には都市と農村の人口比率は29対71であったが、1976年には43対53となった。こうなると、貧富の差が広がってゆく。つまり、アメリカのような社会になっていったのである。

 「湾岸の憲兵」としてのイラン、すなわちアメリカの植民地としてのイランに対しては、当然、保守派や民族主義者やイスラム原理主義者のみならず、旧政権である独立派のイラン人にとっても我慢ならないものとなる。それゆえ、形だけの立憲民主主義に不満を持ったイラン人たちはシャー(王)の体制を覆そうとしたが、シャー(王)はCIAからの支援によりつくった秘密警察である「サヴァク(SAVAK)」による諜報活動によって、反対派の活動を潰していった。

 こうしてイランはアメリカの金持ちたちにとって、大変に都合のいい国となった。この時期のイランはアメリカやイスラエルと蜜月の関係を築き、反対派はサヴァクによって潰せたので安泰に見えた。しかし、このイミテーション立憲民主主義は、日本のようなイミテーション民主主義と違って完成度が低かった。そのため、たまりにたまった不満は後にイラン革命(1979年)へと爆発することとなる。

 

3.日本よりも未完成だった植民地イラン

 第五十一回ブログで、宗主国にとっての理想的な植民地のリーダーについて述べた。もう一度、順番に並べてみよう。宗主国にとって理想的な忠犬は①であり、最悪なのは④である。

 

 ①宗主国の言いなりになる民主主義者

 ②宗主国の言いなりになる独裁者

 ③独立を志向する独裁者

 ④独立を志向する民主主義者

 

 アメリカは1953年にモサデク政権を倒し、イランにシャー(王)と首相によるイミテーション立憲民主主義体制をつくり、イランとの理想的な主従関係を築いたように見えた。しかし、シャー(王)は日本の天皇と違い、政治的な権力を持っていた。シャー(王)がお飾りなのではなく、選挙によって就任する首相の方がお飾りであった。

 つまり、上記で言えば②の体制である。これは植民地支配としては①よりも未完成である。国民の不満は、どうしても権力者である王へと向く。だから、最も理想的なのは植民地を完全に民主化してしまうことであり、「独立」という二文字を除けば全てが揃っているというイミテーション民主主義が理想的なのだ。

 ①の国家においては、民主的な手続きによって選ばれた首相が権力のトップにつく。実際には宗主国の忠犬に過ぎないが、国民にはわからないので問題ない。トップには永続的な権力がなく、数年で交代する。天皇はシャーと違って単なる象徴なので、権力はない。つまり、国民は不満のはけ口を天皇にも首相にも持って行きようがない。天皇には権力がなく、首相を選んだのは国民自身だからだ。

 もちろん、それでも国民には不満がたまる。その際のガス抜きは内閣改造や首相の交代、それでも駄目なら選挙による政権交代で行えばいいので、①の体制ではクーデターの心配はほとんどない。それゆえ、②のような権力一極集中国家よりも、①のような民主主義国家の方が、宗主国としては安心できる。

 他方、②の体制の場合、宗主国が支援する忠犬は常にクーデターの危機にさらされる。民主主義国家には選挙というガス抜きがあるが、独裁国家にはそれがないため、不満は革命に転じえる。

 パフラヴィー朝イランは、②の体制であることから、日本のように高度に洗練されたイミテーション民主主義とは違い、植民地として脆さを抱えていた。そうした内に抱えた脆さが具体化に外側に噴出したものが、1979年のイラン革命であった。つまり、アメリカのイラン支配は、日本に対するものよりも杜撰だったわけであり、イラン人カポーによる国民支配も杜撰だったのである。

第五十二回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(5)

1.曖昧な経済と明確な金儲け

 モサデクはおそらく信じていたのであろう。イランが植民地支配から脱却すれば、自力で生まれ変わることができると。彼の目からすれば、欧米人が頻繁に用いる「援助」という言葉は、彼らが金を儲けるための「投資」であり、結局のところ「支配」に過ぎなかった。それゆえモサデク率いる政党「国民戦線」は、死に体のイランが再生するには植民地支配から脱却しなければならないと考えていた。

 彼らは国民に訴えた。イランには長い伝統と誇るべき文化があり、国土には莫大な原油が眠っている。イラン国民が団結し、その誇りをもとに自立すれば、外国資本に依存しなくても発展途上国から脱することができる。外国資本は一時的な経済の潤いしかもたらさない。最終的にはイランの資産が彼らに吸い取られることになる。だから我々は石油を取り戻し、自分の足で立つべきなのだ。

 モサデクという独立主義者の演説に、大衆は魅了された。しかし、高邁で美しいそうしたスピーチを、投資家が聞いたらどうだろう。彼らはまったく別の角度から聞くに違いない。

 

「なるほど、確かにそうだろう。それは正論だ。ところで、それはいくら儲かるのか?」

 

 イランが高邁な理想をもとに独立を勝ち取ったら、投資家はいくら儲かるのか。モサデクに投資したら、リターンはいくらなのか。投資家からすれば、高邁な理想は曖昧な経済である。独立主義者の話をいくら聞いても、そこにあるのは国民の誇りや、国家の独立や、貧富の差の解消といった全体的利益ばかりである。投資家からすれば、どこかの国民が貧しかろうが豊かだろうがどうでもいい。彼らが聞きたいのは、自分が投資した金がいくらのリターンになるかということである。

 国民が豊かになる。誇りを取り戻す。貧富の差を解消する。民衆の勝利。さて、それはいくら儲かるのか。それのどこに投資したら、利益はいくらになるのか。投資家にはよくわからない。なら、それよりも遥かにわかりやすい数式がある。理想主義者の政権が倒れて、投資家の操り人形の政権が誕生したら、利権は全て石油メジャーが握ることになっている。だったら、政権が倒れる前に石油メジャーの株を買えばいい。これは明確な数式である。

 「金」という観点からすれば、独立や理想や伝統や文化といったお題目はどうでもいい。前回述べた通り、もともと英国が握っていたイランの石油利権を、他の勢力が6割いただくことになっている。40%がアメリカの石油メジャー4社であり、14%がロイヤルダッチシェル、6%がフランスの石油会社である。となると、それらの石油会社の株が莫大な値上がりをすることは誰でもわかる勘定だ。モサデクの理想に耳を傾けている暇はない。わかりやすい「リターン」のためには、さっさと石油会社の株を買うべきである。

 こうして、欧米の石油略奪連合のもとには、金の亡者から莫大な資金が集まる。他方、イランの独立運動にはほとんど金が集まらない。もちろん、各国の理想主義者や市民運動家から、一口1000円程度が入った封筒が届くかもしれない。熱い応援の手紙には100ドル札が同封されているかもしれない。しかし、世界中から集まる封筒をかき集めても、ロイヤルダッチシェルの役員の一人の年収にも届かない。

 投資とリターンのシステムは金を吸い寄せ、巨大な資金プールができあがる。これは石油であろうが、原発であろうが、軍需産業であろうが、すべて同じである。プールができあがったら、あとはいつものパターンで実行すればいい。巨大プールを元手に、言いなりになる政治家を選挙で勝たせ、メディアを牛耳り、大衆の心を操作する。大衆はいいように操られた挙句、リターンは投資家に持っていかれる。そのシワ寄せとして、どこかの国がボロボロになり、誰かがボロ雑巾のように働かされ、徹底的に搾取される。

 

2.「金」と「デマ」

 アジャックス作戦(Operation Ajax)は成功した。それは、ギリシア神話の神々でもここまでうまく事を運べないのではないかと思わせるほどにうまくいったが、やり方は単純だった。豊富な資金源をもとに、有力者に金を配り、メディアを牛耳り、デマをばら撒いただけである。「金」と「デマ」、これだけで一国の政権を転覆させる力があった。

 ただ、モサデク政権は当初、簡単に崩れるようなものではなく、むしろ強かった。1951年に政権が石油を国有化して以来、イギリスとMI6はクーデターによる政権転覆を図ったが、政権と警察は事前にそれを察知し、犯人を逮捕した。同時に、クーデター計画に深く関与していたいイギリス大使館の職員たちを国外追放した。

 潮目が変わったのは、アメリカの国務省アジャックス作戦の実行が決まった1953年の6月からである。ここからCIAが本格的にイランに乗り込み、モサデクが共産主義者であるという一大キャンペーンが展開されることとなった。モサデクを貶めるキーワードは、極めて単純化されたものであった。

 

「モサデクはソ連寄り」

「モサデクは共産主義者

「モサデクはイスラムの敵」

「モサデクは経済を破綻させる」

 

 ヒトラーはかつてこう言った。大衆は物覚えが悪く、理解力も低い。だから単純なことを繰り返し述べることが必要である。繰り返し言われた嘘は、本当になる。この原則に則ってCIAがイランの街にばら撒いたデマは、嘘ではあったが非常に効果的であった。それと同時に、CIAは大衆に共産主義の悪のイメージを植え付けていった。

 都市部では聖職者の殺害事件やモスクでのテロ事件などが起きた。それらはすべてイラン共産党の仕業だと報道されるようになった。しかし、実際はイラン共産党に紛れ込んだCIAの工作員の仕業であった。また、都市部ではCIAから金を貰った自称共産主義者によるデモ行進が頻繁に行われるようになった。これも、イラン共産党が主催したデモではなく、CIAに雇われたイラン人たちであった。

 西側諸国の石油ボイコットにより、イランは経済的に苦しい状況にあった。それゆえ、CIAがならず者のイラン人を大量に雇うことは簡単だった。CIAはイラン人工作員に資金を渡し、工作員たちは街の失業者やヤクザ、不良グループなどを集め、共産主義者を自称させ、街で略奪や放火をさせた。また、CIAは既存のメディアに金を渡すだけでなく、新しい新聞を6紙立ち上げ、そのすべての紙面にモサデクが共産主義者であり、反イスラムであると書かせた。

 しかし、よく考えればわかるが、この時のイランの経済的苦境は、西側諸国による石油のボイコットが原因であり、モサデクの失政が原因ではない。また、モサデクは共産主義者ではないし、そもそも大衆は共産主義がどんな思想なのかはよく知らない。マルクス資本論を読破した人は国民の1%にもみたない。だから、経済的苦境の原因をモサデク政権や共産主義者に求めることはできないはずだが、嘘も大声で言われ続けると、信じる人が増えてくる。

 ただでさえ、大衆はデマに弱いものである。それは1950年代のイランも21世紀の日本も変わらない。新聞とラジオと口コミしかなかった50年代と違い、インターネットなどの第三メディアが発達した現代においても、デマの力は凄まじいものがある。

 

デマなのに・・・トイレットペーパーの次はおむつが品薄

https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000177508.html

 

 CIAが「おむつ」についてのデマを流さなくても、高度情報化社会の人間が右往左往する。自然発生的なデマであっても大衆の心は不安定になるのだから、CIAが用意周到に舞台をつくるなれば、大衆はそこで踊らされるだけである。

 まずは西側諸国の連係で石油をボイコットし、イランの経済的苦境をつくる。その後で大金を投じてメディアを牛耳り、大衆心理を操作する。こうして、一度は独立と誇りを心に誓った大衆も、モサデクから離反していく。モサデクが率いた政党「国民戦線」の政治家や支持者たちでさえ、CIAから金を貰い、モサデクから離れていく者が出るようになった。

 

3.英雄アジャックスの勝利

 こうしたイランの混乱状態の中、CIAは退役軍人の国会議員ファズラッロ・ザヘディ(Fazlollah Zahedi 1892-1963)を首相に任命するようにシャー(王)に強くすすめた。

 

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Fazlollah Zahedi

 しかし、モハンマド・パフラヴィーは迷った。モサデク派の勢いが弱まったとは言っても、モサデク派の力はまだ残っている。下手にモサデクを引きずり降ろしたら、自分がモサデク派に殺されてしまうのではないか。国王はそれを恐れた。しかし、弱気な国王に対して、CIAは脅した。このままだと、イランは共産化するか、朝鮮になる(国が分断される)。そうなれば王族は処刑されるかもしれない。

 イランが東欧のようになっていいのか。あるいは朝鮮半島のようになっていいのか。あなたはイランのリーダーではないか。あなたがイラン国民を率いて、ボロボロになったイランを立て直すんだとCIAはシャー(王)を励ました。イランをボロボロにしたのはCIAであるが、CIAはその再建をシャーとザヘディに託したのである。もちろん、彼らにそんな能力がないことを十分に知ってのことだが。

 こうしてアメリカがシャーの統治を全面バックアップすることを約束し、シャーはモサデク政権の転覆を承認した。これを受けて1953年8月、CIAから資金援助を受けた右翼的な国王派勢力によるクーデターが実行された。モサデク政権にはこれを食い止める力は残っていなかった。

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Monarchist demonstrators in Tehran downtown, 26 August 1953

 こうしてモサデクも含め、「国民戦線」の幹部たちは「犯罪者」ということになった。彼らは逮捕、投獄され、死刑判決を受けることとなった。ここにファズロラ・ザヘディによる内閣が成立し、形式的には国王と首相という立憲民主主義体制がそのまま維持されたが、内容的にはモハンマド・パフラヴィーの独裁世襲による王政、つまりアメリカの植民地となった。

 このクーデターの翌年8月、イラン政府と国際社会の協議により、アングロ・イラニアン石油会社は国際的なコンソーシアム(Consortium 共同事業体)の配下に置かれることが決定した。その株式のうち40%を5つのアメリカ系メジャーが8%ずつ等分し、残りの株式については、英国石油が40%、ロイヤル・ダッチ・シェルが14%、フランス石油が6%という配分となった。こうしてアジャックス作戦は完遂された。英雄AJAXは蛮族から石油を取り戻し、投資家は無事にリターンを得たのである。

 モサデクは裁判で死刑判決を受けたが、死刑は執行されず、3年間獄中生活をおくった後、自宅軟禁の生活となった。晩年は、貧しい農民たちに無料で食事や医療を提供する活動をしたそうである。なお、この歴史的描写は陰謀史観でもなければ反米プロパガンダでもなく、現在のアメリカ政府が認める歴史的事実である。

 

イランの53年政変はCIA主導、初の公式文書確認 米大学

https://www.cnn.co.jp/usa/35036278.html

第五十一回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(4)

 

1.植民地に求められるリーダー像

 欧米人は民主主義が大好きである。それゆえ、アジアやアフリカの独裁国家が大嫌いである。彼らからすれば、民主的なプロセスを経ずに暴力で政権を握り、死ぬまで権力を手放さない独裁者は、身の毛もよだつほどに醜く見える。これは保守も革新も関係なく、欧米人に共通の特徴であり、彼らは中国や北朝鮮を含め、世界中の国が民主主義になればいいと思っている。

 しかしそうは言っても、アジアやアフリカの国が本当に民主主義になられると困るのは、これもまた欧米人であり、特に支配層である。それゆえ、植民地の人々に許されるのは民主主義のイミテーションにすぎず、独立国家としての民主主義は絶対に許されない。日本のように宗主国に従順な民主主義国家になるのなら良いが、本気で独立を志向されても困るのだ。

 この点、モサデク政権が志向した民主主義は、欧米の支配層からすると「困る」方の民主主義であった。イランが民主化して近代化することは大賛成であるが、独立だけは勘弁してほしい。男女平等、福祉の充実、選挙制度の改正、自由な経済競争・・・その他民主化をしたいなら何をやっても結構だが、独立だけは困る。これが欧米の支配層の本音なのだ。

 他方、モサデクは根っからの民主主義者であり、イミテーション民主主義には興味がなかった。そのため彼は、民主的に選ばれた首相として、民主的な手続きによって公約を実行し、民衆の悲願を成し遂げた。これは欧米人が大嫌いな独裁国家の意思決定方式とは真逆であり、大好きな民主主義のプロセスであった。しかし、こういう人物は欧米の支配層からすると非常に困る。本音と建前の区別を理解しないモサデクは、イランで本当に民主主義をやってしまう。支配層からすれば、空気を読まない民主主義者なら、独裁者の方がマシである。

 確かに欧米人は独裁者が大嫌いである。これはネオコンであろうが、リベラルであろうが、共和党であろうが、民主党であろうが変わらない。しかし、欧米の支配層からすれば、最も大事なのは安定した植民地経営である。植民地から搾取して、その利益を宗主国に還流させることである。この経済的な基盤が崩れたら、宗主国の安定した民主主義ですら困難に陥る。そのため、彼らが植民地に対して望む理想のリーダーは次の順位となる。

 

宗主国の言いなりになる民主主義者

宗主国の言いなりになる独裁者

③独立を志向する独裁者

④独立を志向する民主主義者

 

 ①が最も理想的であり、その具現化した姿が日本の政治家である。支配層からすれば正に理想的な人物が自民党の総理大臣であり、イミテーション民主主義の典型である。しかし、有色人種の国の全てを日本のような国にすることは不可能である。そのため、①が駄目なら②となる。イランのモハンマド・パフラヴィーは②であったので、アメリカやイスラエルはパフラヴィー政権に多額の資金援助をした。

 ③は厄介であるが、邪魔なら殺してしまえばいいので楽である。民衆の支持もなく、欧米のメディアにその醜い顔を晒す独裁者は、戦争や内戦で崩壊させてしまえばいい。問題は④であり、これが宗主国にとって最悪のパターンである。本音と建前の区別を知らない民主主義者ほど、欧米の支配層にとって厄介なものはない。

 こういう人物は植民地のみならず、欧米のリベラル層の間でも人気が出る。よって、戦争で潰してしまうわけにはいかない。相手が独裁者なら、フセインカダフィやノリエガのように潰すのは簡単だ。しかし相手が民主主義となると、宗主国の世論形成が難しい。リベラル派が反戦デモをはじめるかもしれない。それゆえ邪魔者を爆弾で殺すわけにはいかないので、手の込んだやり方で駆除する他はなくなる。その手の込んだ仕事をするための専門家集団が、CIA(Central Intelligence Agency)である。

 

2.蛮族から石油を取り戻す

 イギリスからすれば、イランの石油はイギリスのものである。つまり、モサデクはイギリスの資産を盗んだ泥棒である。しかし、イランとの戦争になれば大事な石油施設が傷つくかもしれない。戦争になって施設が破壊され、あるいは流通がストップしてしまえば、安定した供給、すなわち安定した商売も危機に陥る可能性がある。イランは許せないが、喧嘩はまずい。イギリスはこのジレンマに悩んだ。

 そこで、イギリスはSIS(Secret Intelligence Service英国秘密情報部 略称MI6)の活動を通して、モサデク政権の転覆を図った。しかしMI6だけの力では、政権の転覆を成し遂げる力はなかった。そのためチャーチル政権は、アメリカのCIAと共同で作戦を実行することを試み、アメリカ政府に働きかけた。

 しかし、アメリカのトルーマン政権はそれほど乗り気ではなく、むしろイギリスとイランとの和平交渉を志向した。しかし、イギリスは和平を望んでいなかった。チャーチル政権が望んだものはモサデク政権の転覆であったから、イギリスとイランとの間で仲介役になろうとしたトルーマンチャーチルとでは、まったく話が噛み合わなかった。

 潮目が変わったのは、1953年にアメリカでアイゼンハワー政権が成立してからである。この時、二つの要因により、アメリカの態度は変わった。一つは、アイゼンハワーソ連を中心とした共産陣営との冷戦をトルーマンより深刻に考えており、イランが欧米支配を脱して共産化することを警戒したためであった。

 「モサデクは共産主義者ソ連と同盟を結ぶつもりだ」とチャーチルは繰り返しアイゼンハワーに吹き込み、アイゼンハワートルーマンよりもチャーチルのでっち上げを信じた。確かに、反発するイギリスに対抗するためにモサデクはソ連に接近したが、彼は共産主義者ではなく、ソ連を信用していたわけではなかったので、イランを共産化するつもりはなかった。しかし、植民地の反逆者に「共産主義者」というレッテルを貼るのは簡単であり、その風評を剥がすことは非常に困難であった。

 しかしその要因よりもアメリカを動かしたのは、二つ目の要因、すなわち金だった。当初、イギリスは石油の全面支配を諦め、イランに対して50対50を提示したが、イランはこれを断った(前回のブログ参照)。そこでイギリスはアメリカに対して利権の4割を提示したのである。この莫大な利益を前にして、最初はイギリスに対して冷淡だったアメリカ政府の態度は激変した。

 これによりイギリスの目論むモサデク下ろし計画に、アメリカも全面的に参加することとなった。こうして彼らは勝利を確信し、欧米人の間で石油の分け前の合意が成立した。イラン国内でモサデク政権の支持率が最高だった時に、政権崩壊後の青写真ができあがっていたのである。利益の内訳は、アメリカ系石油メジャーが4割、英国が4割、ロイヤルダッチシェルが14%、フランスの石油会社が6%というものであった。

 こうして欧米石油連合が、モサデク政権転覆計画を実行することとなった。この作戦は、ギリシャ神話の英雄AJAXから名前を取り、アジャックス作戦と呼ばれるようになった。白人の英雄アジャックスが蛮族から石油を取り戻すというストーリーである。この作戦の中心人物となったのが、国務長官ジョン・ダレス(John Foster Dulles 1888-1959)、その弟でCIA長官のアレン・ダレス(Allen Welsh Dulles 1893-1969)、ダレスの部下でCIA職員であるリチャード・ヘルムズとヘンリー・キッシンジャーであった。

 

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John Foster Dulles

 

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Allen Welsh Dulles

 

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Richard Helms

 

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Henry Kissinger, 1950

3.金の切れ目は理想の切れ目

 リチャード・ヘルムズはイランの二代目シャーとスイス時代に御学友であった(第四十九回ブログ参照)。そこで彼らはモサデクを政権から引きずり下ろし、二代目の権力を強化し、アメリカの言いなりになるイランのザヘディ将軍を首相に据えることを計画した。現地での作戦実行については、ロイ・ヘンダーソン駐イラン大使が中心となった。

 

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Loy Henderson

 ここからCIAによる金のばら撒き作戦が始まる。英雄アジャックスの名を冠した作戦は、イランの政治家、企業家、村の有力者、軍部、メディアに対する金のばら撒きがその具体的な内容であった。と同時に、次のような誹謗中傷の宣伝ビラやポスターをばら撒き、大衆に訴えた。

 

「モサデクはソ連寄り」

「モサデクは共産主義者

「モサデクはイスラムの敵」

「モサデクは経済を破綻させる」

 

 こうしたばら撒き作戦と並行して、イギリスは石油問題を国際司法裁判所と国連の安保理に提訴し、イランが法的に石油を海外に売却できないように根回しをした。同時に、ペルシア湾に海軍を派遣し、イランが石油を輸出しようとすればいつでもタンカーを攻撃できるようにした。これにより、西側諸国はイランの石油を買わなくなったので、イラン経済は悪化し、モサデク政権は窮地に陥った。こうなると、モサデク支持者たちの心も揺れ動く。

 CIAから金を受け取ったイラン人たちは反モサデクの声を高らかに上げ始め、イギリスの石油利権の下請けとして働いていたイラン人たちも、生活に困窮するようになった途端に独立派から妥協派へと変節した。こうなると、CIAによって撒かれた風評のビラが、リアリティを帯びてくる。実際にイランの国民生活はビラの通りに苦しくなっているのである。そして、金に困ってくると次のような弱音がリアリティを帯びてくる。

 

「イギリスに石油を握られても、彼らは我々に仕事をくれた。前の時代の方が良かった。」

 

 植民地支配からの脱却という高邁な理想よりも、大衆にとっては目先の食費や家賃の支払いの方が遥かに重要である。植民地搾取の商売は儲かり、独立運動は一円にもならない。手弁当で働く弱者の市民運動は、生活が苦しくなれば簡単に崩壊する。市民運動家は会社で働きながら、週に一日か二日の休日に無給で活動をしなければならない。他方、MI6やCIAは高給を貰いながら毎日活動できる。搾取という巨大な資金源を持つ側は、その金庫をもとに独立運動を簡単に潰せるが、独立派の資金源は弱者たちによる手弁当で成り立っているために、簡単に底がつく。

 彼らは大衆の心理と弱点について知り尽くしていた。イエズス会の時代から研究を積み重ねてきたプロなのだ。モサデク政権という理想主義者の集まりは、そんなプロからすれば、簡単に攻略できる相手だった。案の定、モサデク政権は内部から崩壊し始める。あの時、イギリスが提案した50対50を呑んでおけばよかった。経済的に困窮したイラン人からは、そんな声すら出始めるようになった。

 結局のところ、モサデク政権はザヘディ将軍のクーデターが起こる前に、内部崩壊していた。独立という高邁な理想は、金の切れ目によって切れたのだ。モサデクを中傷するビラは豊富な資金源をもとに大量にばら撒かれたが、それに反論するビラを市民が撒こうとしても、印刷代は市民にとっては高く、デモに行くための交通費ですら市民には痛かった。

 資本家は知っている。市民運動手弁当で一時的に盛り上がっても、長続きしない。市民にとっては1000円のバス代や10000円の電車代や100000円の飛行機代は大金である。しかし、CIAの職員が1000万円を経費で使っても、搾取側からすれば「はした金」に過ぎない。

 搾取する側にとっては、金の出所は明確であり、儲けと経費の計算は数式により明らかである。しかし、市民運動側の活動源は善意や理想といった曖昧なものであり、経費がいくらで儲けがいくらなのか判然としない。そのため支配者層からすれば、この戦争は始まる前から勝者が明確なものであった。人間は金で動く。それは金持ちからすれば数学よりも明確な真理であった。それゆえ、正義が勝つのではなく、金が集まる方が勝つというのは、彼らにとっては朝に太陽が昇るよりも明確なことであった。

 

第五十回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(3)

1.近代化はYES、独立はNO

 欧米人は、植民地が近代化し、欧米のような国になることについて大歓迎である。独裁国家民主化することは大歓迎であり、選挙のない国で普通選挙が行われることは大歓迎であり、自由な経済競争が行われることは大歓迎であり、義務教育や男女平等が広まり、都市計画や衛生設備や福祉制度が充実することは大歓迎である。

 ただし、独立はまったく歓迎されない。なぜなら植民地の近代化は、宗主国の利益のためになされるものだからである。宗主国に利益が還元されないなら、家畜の国が近代化しても意味がない。人間が羊や豚の健康を神に祈るのは、良質な羊毛や豚肉を取るためである。家畜が健康になった結果、柵を飛び越えて逃げてしまったら意味がない。

 植民地が独立すると困る人達が、二種類存在する。一つは植民地支配で利益を得る支配者層であり、もう一つはその家来として利益を得るカポー達である(カポーについては第三十一回ブログを参照)。日本はカポーによる支配が極めてうまくいっている国なので、政治家も官僚もメディアも、国家の独立を志向しない。それゆえ教育も報道も、日本が独立国であるという物語を流布し続ける。それを国民のほとんどが信じることによって、日本が植民地であることは問題にすらなっていない状況である。

 これは宗主国からすれば、大変に嬉しいことである。彼らからすれば、日本人には大いに勘違いしてもらってよい。アメリカと日本が両方とも独立国であり、日米同盟は対等な関係だと勘違いしてもらってよい。日本はアジアNo.1の先進国であり、優れた文化と科学技術の力を持った民主主義の国だと勘違いしてもらってよい。実は国家として独自の意思決定はできず、自らの財産を自由に活用することもできないことについては、知らなくてよいのだ。

 

2.二人のモハンマド

 「湾岸の憲兵」と呼ばれたイランも、日本のような国、すなわち近代的植民地を目指していた。道路が整備され、選挙制度が完備され、男も女もオフィスで働く近代的な植民地である。彼らはそうしたコンクリートジャングルで働き、結婚し、子を育て、グローバル企業に利益を吸い取られながら生きてゆく。

 イランがその路線を志向し、かつ独立に無関心である時、英米イスラエルはイランを熱烈に応援した。パフラヴィー王制二代目の時代には、それらの国々は同盟国(宗主国と植民地)ですらあった。しかし、この蜜月の主従関係が成立する前には危機があった。それが後に述べるアーバーダーン危機(Abadan Crisis)である。

 イランが日本と違う点は、石油というわかりやすい資源があることであろう。日本の郵便貯金原発などのエネルギー、軍事力などは、全て外国人に握られているが、日本人にはわかりにくい。モルガンやロスチャイルドの言いなりになる郵貯であっても、役員や従業員は日本人であり、電力会社の経営も日本人によって行われており、自衛隊のトップも日本人である。そのため、日本の外見は独立国である。

 しかし、イランの場合には国土に豊かな石油資源がありながら、その利権はすべて外国人に握られていた。石油会社の幹部は全てイギリス人であり、イラン政府もその言いなりになっていた。いくらイランが欧米化しようと、石油がイラン人のものでないことは見ればわかる事実であった。これは日米関係のような玉虫色の支配と違い、わかりやすい植民地支配であった。

 イランは世界第四位の産油量を誇る国土を持ちながら、20世紀初頭の油田の発見以来、その利権は全てアングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー(Angro-Persian Oil Company  略APOC)に握られていた。これはパフラヴィー朝の前のカージャール朝から続いている石油支配であり、モハンマド・パフラヴィーの時代になっても全く変わらなかった。モハンマドは1941年に父親から王位を奪った後、イランの近代化に尽力したが、石油利権については何もしなかったのである。

 そこに現われたのが、もう一人のモハンマド、すなわちモハンマド・モサデク(Mohammad Mossadegh 1880-1967)であった。モサデクはカージャール朝の貴族の血筋であり、ソルボンヌ大学を卒業後、スイスのヌーシャテル大学で法学博士号を取得している。つまり、家柄が良く、ヨーロッパで高等教育を受けたという点では、もう一人のモハンマドと彼は同じであった。

 つまり、言葉も文化も宗教も異なるイスラム教徒と違い、欧米人からすればモサデクはかなり話の通じる人物に見えた。フランス語を流暢に話し、イランの近代化を目指すモサデクは、欧米人からしても友人、つまり都合のいい操り人形になってくれる人物に見えたのだ。しかしモサデクは独立主義者であった。この一点により、彼は危険人物と見なされるようになった。同じモハンマドでも、パフラヴィーと違い、モサデクは欧米から敵視されるようになる。

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Dr. Mohammad Mosaddegh, 1951

3.民衆の勝利は宗主国からすれば暴動である

 ヨーロッパからイランに戻り、国会議員となったモサデクは、政治家としての経験を積み、財務大臣となり、影響力を増していった。彼の政策の柱は植民地支配からの脱却であり、そのシンボルが石油国有化法案であった。もちろん、石油の国有化は彼のみならず、独立派のイラン人なら誰もが唱えた政策であったが、この時期、モサデクという求心力をもとにイランの世論が国有化へと一本化していったのである。

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Mohammed Mosaddegh rides on the shoulders of cheering crowds in Tehran

 これに憤慨し、危機を感じたのはイギリスであった。イギリスは1901年からイランの油田探査を開始し、これが後のAngro-Persian Oil Company(APOC)となり、現在のBPへと繋がっている(詳しくは第四十七回ブログを参照)。イギリスからすれば、イランという未開の土地で原油を発見し、精製して商売にする方法を開発したのはイギリス人であるという自負がある。それゆえイギリス人の観点からすれば、石油がイランの国土にあろうが、法的な所有権者はあくまでもイギリス人である。

 もちろん、イランの独立派からすれば、そうしたイギリスの論法は詭弁にしか聞こえない。イランの国土に石油があっても、無能なイラン人はそれを知らなかった、だからイランの石油はそれを発見した賢いイギリス人のものだと言われても、イラン人としては納得がいかなかった。それゆえ、この状況下でイギリスが石油の全面的な所有権を頑なに主張し続ければ、暴動や武力衝突になりかねなかった。それはイギリスが望む安定した石油会社の経営にとって著しくマイナスであった。

 そこで、APOCおよび英国政府は石油の全面支配を諦め、懐柔策として、イギリスとイランで石油利権を半分に分けるという提案をした。これはイギリスからすれば最大限の譲歩であったが、モサデクはそう見なかった。彼はこの提案を、イギリスがイランの植民地支配を継続するための策略だと受け取った。また彼を指示する独立派のイラン人たちも、モサデクと同様の解釈をした。

 このためモサデクを支持する独立派のイラン人たちは、1951年の選挙でモサデクを選び、モサデクは首相に就任した。そして彼は議会でついに石油国有化法を可決させた。政権はこの新法をもとに、イラン南西部の都市であるアーバーダーン(Abadan)の石油生産設備から英国人石油関係者達を追い出した。

 これによりイランでは、民衆から選ばれた政権が、民主的な手続きをもとに、民衆の悲願が達成されるという大事件が起きた。戦争ではなく、民主主義によって、イラン人が白人から石油を取り戻したのである。これは、政府の上層部が民衆の意向と関係なく行う「上からの近代化」とは異なり、イランの草の根の民衆が起こした革命であり、民衆の勝利であった。

 しかし宗主国からすれば、この事件は民衆の勝利でもなければ民主主義の勝利でもなく、単なる暴動であり、犯罪であった。モサデクは英雄ではなく、農民一揆の扇動者であり、秩序の破壊者であった。そして、資本家からすれば財産の危機である。そのため、英米ではこの事件を「民衆の勝利」と呼ばない。単にアーバーダーン危機(Abadan Crisis)と呼ぶ。

第四十九回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(2)

0.イランとアメリカの関係性

 前回のブログでは、予定を変更して新型コロナウイルスについて考察した。今回は、第四十七回ブログからはじめているシリーズに戻りたいと思う。イランとアメリカがなぜ対立するのか、その歴史的関係性について述べていきたい。

 

1.二代目当主の近代化政策

 「会社は三代目が潰す」とは、よく巷間で聞かれる言葉であるが、パフラヴィー朝イランの場合は三代目に至る前に、二代目で潰れることとなった。しかし、これは致し方ないのかもしれない。今のイラン政権でさえも、二代目のハメネイ時代で存亡の危機にある。中小零細企業を三代目まで持たせることですら難しいのだから、イランの舵取りとなれば、その難しさは想像を絶するのかもしれない。

 一代目は猪突猛進型の創業者、二代目はその正反対の坊っちゃんというパターンは、会社であろうが王家であろうが、よくあることなのだろう。ご多分に漏れず、二代目のシャー(Shāh王)であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Rezā Pahlavi 1919-1980)は、生粋の軍人であった父親と違い、幼少から王族であった。彼は父がシャー(Shāh王)になると同時に、6歳で王子となる。

 そしてモハンマドは、少年時代をスイスのル・ロゼ(Institut Le Rosey)で過ごした。多くの日本人にとって、ル・ロゼ(Le Rosey)は耳にしたことのない言葉かもしれないが、欧米の金持ちからすれば、ル・ロゼを知らない人の方が珍しい。

 

レーニエ大公、セネガル皇太子からショーン・レノンまでが同窓生

https://www.gqjapan.jp/culture/column/20160806/the-worlds-best-boarding-school

 

 ル・ロゼは1880年に設立されたスイス最古の寄宿学校の一つであり、世界で最も高額な授業料を取る学校の一つと言われている。当然ながら、そこでの生徒は大金持ちや王侯貴族の子息・子女ばかりであり、卒業生もベルギー国王やモナコ大公、イギリスの王族やロスチャイルド一族といった顔ぶれである。

 

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Prince Mohammad Reza Pahlavi on the left and his friends, Institut Le Rosey, 1931

 パフラヴィー二世が親しかった御学友の一人に、アメリカ人のリチャード・ヘルムズ(Richard Helms 1913-2002)がいた。ヘルムズは後にCIA長官となり、その後はイラン大使となる。

 

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Richard Helms and Richard nixon

 生粋のペルシア軍人だった父と違い、スイスの貴族学校で少年時代を過ごした二代目シャーにとっては、欧米の文化は身近なものであった。そのため皮肉なことに、二代目の時代のイランは、史上最もアメリカやイスラエルと親密な関係を持っていた。これは、現在のイランの体制とは正反対であり、極端から極端へとこの国の軸が揺れることを示している。

 

2.二代目と保守派の対立

 二代目は無能な金持ちの坊っちゃんではなく、英語とフランス語を流暢に話す国際派であった。そして彼の目標は、皮肉なことに、自らが追い出した父と同じくイランの近代化であった。インターナショナル・スクールで育った彼は、その目標を達成するために、少年時代からの人脈である欧米の金持ちを自国に取り入れた。つまり、外国資本をイランに積極的に導入し、欧米企業をイランに多数誘致したのである。

 それとともに、土地改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を行った。これがイランの白色革命と呼ばれる改革運動であるが、その名称はフランスで国王や皇帝を象徴する色が白(White)であったことに由来する。つまり、国王による「上から」の近代化が、White Revolution(白色革命)なのである。

 この時、イスラム女性が髪を覆うヒジャブ(ヘジャブ hijab)は禁止された。少年時代から欧米文化に慣れ親しんだモハンマドからすると、ヒジャブはイランの後進性の象徴に見えたからである。

 

イランの女性ファッションとメイクは、この100年でこんなに変わった

https://www.huffingtonpost.jp/2015/02/23/how-iranian-beauty-has-changed-over-100-years_n_6740106.html

 

 こうなると、イスラム保守派からすれば、二代目シャーはイスラムの伝統を破壊する欧米の操り人形に見えてくる。そのため、イラン国内ではアーヤトッラールーホッラー・ホメイニー(Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī 1902-1989)を中心とする反体制運動が起こるようになった。モハンマド・パフラヴィーはホメイニーを国外追放処分とし、ホメイニーはパリへ亡命することとなった。この時点では、ホメイニーが負け、パフラヴィーが勝ったように見えた。

 

3.独立は絶対に許されない

 パフラヴィー朝イランの目標はイランの近代化であったが、民主主義は眼中になく、政治体制はシャー(王)による独裁であり、あくまでも上からの改革としての開発独裁体制であった。これは欧米の民主主義とは180度異なるものに見えるが、欧米列強からすれば、言いなりになって動くイランの王様は好都合であった。そのため、当時のアメリカやイスラエルはイランに対して極めて友好的であった。

 アメリカは軍事的にもイランと深いつながりを持ち、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機とボーイング747空中給油機をイラン空軍に納入した。また、同じく最新鋭のボーイング747-SP旅客機をイラン航空に販売している。

 イスラエルにとっては、トルコに次いで二番目に国交を樹立したイスラム圏の国がイランであった。イランはイスラエルに石油を供給し、軍事的にもイランとイスラエルは共同でミサイル開発を行った。つまり、この時の両者は敵国ではなく、同盟国と言ってもいい間柄であった。現在の国際情勢からすれば、まるで別世界である。

 ただ、この「同盟国」という名前は、イラン側の観点からの名称である。白人側からすれば、白人と対等に「同盟」を結べる国家は地球上に存在しない。つまり、彼らからすればそれは「同盟」という名の植民地政策であり、自分たちの言いなりになる有色人種の国家が「同盟国」である。そのため、彼らは民主主義や資本主義、近代化やグローバル経済について声高に唱えても、決して「独立」は許さない。

 植民地が資本主義になることはよい。グローバル企業がその市場で儲けることができるからだ。植民地が民主的な選挙制度を持つことはよい。宗主国がメディアを操作して傀儡政権を持つことができるからだ。植民地が民営化することはよい。植民地の金融とインフラをグローバル企業が握れるからだ。植民地に義務教育が普及することはよい。グローバル企業にとって使える人材が増えるからだ。植民地が男女平等になることはよい。人口の半分だけでなく、全体をグローバル企業の奴隷にできるからだ。植民地と宗主国が軍事同盟を結ぶのはよい。宗主国は植民地に軍事基地を建て、好きなように使えるからだ。

 しかし、植民地が独立するのはダメだ。上記の利益が全て失われるからだ。だから、植民地が独立するなら、それは形だけのものでなければ、宗主国としては困る。植民地の利益は宗主国が享受するのでなければならないので、植民地の利益を植民地の国民が享受しては困るのだ。だから植民地が独立することは、宗主国からすれば絶対にあってはならないことである。

 この点、パフラヴィー朝イランはモハンマドという親欧、親米、親イスラエルの王様が統治する国であり、欧米にとっては大変に都合のいい国であった。この時のイランは、「湾岸の憲兵」と呼ばれていた。イランは憲兵隊長であるパフラヴィー王の下で、白色革命を実行し、近代化(欧米化)した。しかし、イラン国王が本格的な憲兵隊長、つまりカポーの親玉へと成長する前に、この国には本気で独立を目指す政治家が存在した。それが、モハンマド・モサデク(Mohammad Mossadegh 1880-1967)である。

 

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Mohammad Mossadegh

 モサデクもパフラヴィー王と同じく、改革主義者であり、その目標はイランの近代化であった。つまり、イランを欧米並みの近代国家にすることが彼の目標であった。しかし、モサデクの目標はそれだけではなく、その目標には欧米支配からの独立も含まれていた。これは宗主国からすれば絶対に許されないことである。そのため、CIAはモサデクを潰すために、全精力を傾けることとなる。

第四十八回 新型コロナウイルス その蔓延を喜ぶのは誰か

0.予定変更

 今回は予定を変更し、新型コロナウイルスについて考察していきたいと思う。

 

1.動物という物言わぬ魔女

 新型コロナウイルスの感染源は、中国の食物市場にあるアナグマや竹ネズミではないかと言われている。日本の大手メディアは、概ねそうした論調で報道している。

 

新型ウイルス肺炎「感染源は市場の野生動物か」中国の専門家

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200122/k10012254981000.html

 

新型肺炎、感染源はどこ? 中国の専門家、分析さまざま

https://www.asahi.com/articles/ASN1X4WN1N1QPLBJ004.html

 

 感染源が野生動物ということなので、美食家の間では「ジビエは食べても大丈夫か?」という懸念となっているようだ。

 

日本の「野味」は大丈夫? 拡大する新型肺炎 野生動物を安心して食べるには

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/579116/

 

 今回のウイルス蔓延事件により、中国のアナグマや竹ネズミは、「感染源」とされ、世界中から悪者扱いされているようだ。なお、竹ネズミは「ネズミ」とは言っても、日本人が想像するネズミと違い、以下の記事を見てもわかる通り、かなり大きいようである。

 

タケネズミを食べてもよいか?専門家は「新型ウイルス発生での非常事態には控えるべき」

https://www.afpbb.com/articles/-/3264840

 

 しかしもし彼らが、人間の手でウイルスに感染させられたとしたらどうだろう。仮定の話だが、アナグマや竹ネズミが人間の手によって新型ウイルスに感染し、感染した彼らが市場に出回り、その結果として人間が感染したならば、それはアナグマや竹ネズミのせいではなく、人間の自業自得であると言えないだろうか。

 中世ヨーロッパでは、霊感の強い女性がペストの原因だとされ、火あぶりにされた。いわゆる魔女狩りである。しかし、中世ヨーロッパにおけるペスト蔓延の原因は、当時の不潔なヨーロッパ人の習慣にあった。

 

不潔なのが当たり前?! 城塞都市のトイレやお風呂の衛生事情

https://www.phantaporta.com/2017/11/blog-post22.html

 

 自業自得で苦しんでいる人間ほど、苦しみの原因を外部に探すものである。それゆえ、魔女狩りは中世のみならず、人間社会において常に起きる。アナグマや竹ネズミは悪者扱いされ、日本を歩く中国人観光客は煙たがられ、ヨーロッパを歩くアジア系の人々は煙たがられる。我々は簡単に誰かを魔女に仕立て上げ、あるいは何かのきっかけで、我々が簡単に魔女に仕立て上げられることもありうる。

 

2.金儲けにつながる大量破壊兵器

 ウイルス兵器の起源は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸侵略の時代にあると言われている。天然痘に感染した兵士が使っていた毛布を、白人がネイティブ・アメリカンにプレゼントしたのだ。これにより白人は、自軍兵士を失うことなく、相当数のネイティブ・アメリカンを殺す方法に気づいた。

 これ以来、化学兵器は戦争にとって欠かせないものとなった。白兵戦では味方に多くの犠牲者が出るが、毒ガスを撒くなら、死ぬのは敵だけである。また、この技術は民間転用ができ、戦後は金儲けになる。毒ガスは殺虫剤になり、枯葉剤は除草剤や抗がん剤へと進化した。女性用のナイロンストッキングを開発したのも、核ミサイル用のプルトニウムを開発したのも、デュポンである。

 大量破壊兵器と言えば、多くの人は核ミサイルを思い浮かべるかもしれない。しかし、核開発は莫大な金がかかるし、実戦で使用しづらい。その点、化学兵器は低コストで高効率であり、使い勝手がよい。核ミサイルなら誰が撃ったかわかってしまうが、化学兵器生物兵器、ウイルス兵器)の場合は誰が撒いたかわかりづらい。また、戦後は民間転用で金儲けになる。つまり、安い、(死者が)多い、儲かるの三拍子である。

 そのため現代においても様々な軍事大国が、化学兵器生物兵器、ウイルス兵器)開発に余念がない。アメリカにおける化学兵器研究の拠点は、メリーランド州にあるフォート・デトリック(Fort Detrick)である。ここで、米軍に雇われた科学者たちは、日夜、大量に人を殺せるウイルスや化学物質を開発中である。

 ただここ数年、米軍は単独研究ではなく、日本にもその下請け的な働きを望んでいる。そのため、日本国もどうやらウイルス兵器の開発に余念がないようだ。文科省が官邸に忖度して、総理のお友達が四国に獣医学部を強引につくったことが一時期問題となったが、本当は国の税金を使って殺人ウイルスをつくる方が余程問題のはずだ。

 

石破茂氏の発言で懸念広がる加計学園の「バイオハザード問題」

https://nikkan-spa.jp/1372508

 

 この点については第二十九回ブログを見直してもらうか、「新聞記者」という秀逸な映画をご覧いただきたい。

 

映画『新聞記者』 公式サイト

https://shimbunkisha.jp/

 

 さて、今回のウイルス事件で世界的に有名な都市となった中国の武漢であるが、ここには最新鋭のウイルス研究所が存在する。それが「武漢国家生物安全実験室」と「中国科学院武漢病毒研究所」である。そのため、明確な因果関係は立証できないが、今回の新型コロナウイルスはこの施設で開発されたものなのではないかと推測する記事もある。

 

中国の新型肺炎イスラエルで「生物兵器の可能性」指摘される

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200129-00010003-flash-peo

 

習政権「新型肺炎」感染者10万人超“隠蔽”か!?

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200130-00000005-ykf-int

 

 研究所の中に第三者が潜入して取材することは不可能なので、今回の新型ウイルスが人工のものであるというのは、あくまで仮説に過ぎない。しかし、ウイルスを何でもかんでも自然発生的に生じたものだと考えるのは誤っている。エイズやエボラも、研究所でつくられたものである可能性はある。

 ウイルス技術は軍事的価値のみならず、民間技術として応用できる「金のなる木」である。金の匂いのするところには、金が集まってくる。ということは、現在世界に出回っているウイルスのかなりのものは、研究所によってつくられたものである可能性もある。

 

3.戦争の下準備としてのウイルス

 台風であろうが、ウイルスであろうが、現在の科学技術の水準からすれば、それらは人工的につくることが可能である。これは都市伝説ではなく、科学の常識である。人工台風については、第三十二回ブログをご覧いただきたい。

 結局のところ、今回の新型コロナウイルスについても、自然発生なのか人工なのか、決め手となる証拠は見つけられない。なので、どちらの説にしても推測でしかない。武漢の研究所でつくられたものだと推測する記事については先にあげたが、自然発生のものだと推測する論者もいる。軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は、今回の新型コロナウイルスは自然発生のものだと考える方が妥当だと述べている。

 

新型ウイルス「中国が秘密開発した生物兵器」トンデモ説が駆けめぐった一部始終

https://www.businessinsider.jp/post-206829

 

 確かに、新型コロナウイルスの殺傷力は強くないので、殺傷力という観点からすれば、黒井氏の述べていることは説得力がある。しかし、今回のウイルス蔓延の目的が、大量殺傷でないとしたらどうだろう。例えば、政府が戦争を遂行しようとする時、そこには事前準備が必要である。いきなり戦争をすることはどこの国でもできない。

 そのいい例が911事件とイラク戦争であり、イラクとの大規模な戦争の前には、ニューヨークのビルを破壊するなどの様々な準備が必要であった。その準備の一環と見られている事件が、炭疽菌事件(2001年9月18日、同年10月9日)である。炭疽菌の入った封筒が、アメリカのテレビ局や出版社に送られ、封筒を開封した5名が死亡、17名が負傷した事件である。しかし、その凄まじい効果は殺傷力よりも、国民に与えた心理的効果であった。

 つまり、戦争を準備している側からすれば、準備段階で大量の人間が死ぬ必要はない。むしろ、死者は少数でかまわない。そのためには、実戦兵器としての本格的なウイルスは必要ない。大衆の心を、いつ、どこで、何が起こるかわからないという不安な気持ちにさせることが大事なのである。

 炭疽菌事件の死亡者数は5名に過ぎなかった。しかし、アメリカ国民全体の心に影響を与えた。ビルの破壊。ペンタゴンの破壊。炭疽菌事件。その他様々な下準備があり、ナイラ事件(第十五回ブログを参照)が発火点となり、アメリカ世論はイラク戦争へと流れていった。

 安定した社会においては、一般国民は常に戦争に反対である。戦争で大儲けできるのは少数の資本家だけであり、一般国民にとって戦争の利益はないからだ。そのため、一般国民に「戦争もやむなし」と思わせるにはそれなりの操作が必要である。疑心暗鬼になり、人心が不安定となって、はじめて戦争が可能となる。ウイルス兵器は、戦場で敵国の人間を殺す目的で使われるのみでなく、自国の人間の心を乱れさせるために使われる可能性がある。

 今、世界に蔓延している新型コロナウイルスは、自然発生のものかもしれないし、人工のものかもしれない。誰かが故意にばら撒いたものかもしれないし、事故で漏れたものかもしれない。しかし、そういった原因は、もしかしたらどうでもいい問題なのかもしれない。我々が薬屋に行って「マスクがない!」と右往左往している姿を、嗤いながら見ている人達がいるのだろう。彼らにとっては、ウイルスの原因が何であれ、大衆の心が乱れているのは喜ばしいことである。

 

マスク売りきれ問題、中国人の買い占めが日本にまで及ぶ事情

https://diamond.jp/articles/-/227324

 

 なお、ウイルス狂詩曲の嵐の中、海上自衛隊護衛艦「たかなみ」は、本日(2020年2月2日)中東へ出港している。いよいよ日米合同での中東での軍事作戦が本格的に開始するのであるが、そんなニュースはウイルスで心がいっぱいになっている国民の関心事ではない。これも、戦争をしたい人たちからすれば大変に喜ばしいことであろう。

 

中東派遣の護衛艦が2日出航 下旬到着、情報収集や不審船警戒

https://this.kiji.is/596243816199717985?c=65699763097731077