戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十一回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(12)

 

1.日本とイランの違い

 「日本はアメリカの植民地だ」と言うセリフはよく聞く。日常会話でも時おり耳にするし、属国日本論についての書籍は大きな図書館に行けば必ず見つかる。街角にはある政党のポスターが貼られており、「アメリカの言いなりやめよう」と書かれている。つまり、日本がアメリカの植民地であるという事実は広く認知されていることなのである。

 これについて「けしからん」と怒る人もいれば、「しょうがない」と諦める人もいる。私はそのどちらでもなく、「なぜだろう」と思っている。アメリカがいくら強大だと言っても、ベトナム戦争では負けており、イラクにおける米軍統治は失敗続きである。アフガニスタンでもうまくいっていない。そう考えると、アメリカが理想的な支配を実現できている国は、日本くらいなのかもしれない。

 私がアメリカとイランとの関係について長々と考えているのも、そのことが絡んでいる。つまり、アメリカとイランとの関係を見ることで、日米関係も見えてくるのではないかという思惑がある。植民地支配は宗主国の力だけで成立するものではない。宗主国と植民地、二つの力の合作によって統治は成立する。

 かつてのイランもアメリカの植民地だった。しかし、イランと日本とでは違いがある。イランの基幹産業は石油であり、それが欧米の石油メジャーに握られていた。そのことは、子どもが見てもわかるほどに明らかな事実であった。また、パフラヴィー王がスイス育ちのエリートで、CIA長官と御学友だったことも明らかであった。つまり、王がアメリカと一心同体なことは国民から見ても明白だった。

 日本の場合はイランのようなわかりやすい資源がなく、アメリカと一心同体の独裁者もいない。つまり日本とイランの違いの一つは、この「わかりやすさ」であろう。現在の日本も当時のパフラヴィー朝も、ボスはアメリカ、政府はカポーということで共通している。しかし片方の支配は見てすぐわかる支配であるが、もう片方はわかりにくく、複雑である。

 日本国民は自民党を知らない。自民党を好きな人も嫌いな人もいるだろう。しかし、両者とも自民党がCIAの資金提供その他尽力でつくられた政党であることを知らない。マスコミは知っても報道しない。日米首脳会談は二つの独立国の首脳による会談ではなく、本店の部長と地方の支店長の会議にしか過ぎないのだが、マスコミはいかにも二つの独立国が会談をしているように報道する。

 例えば泥棒が強盗をして金庫を盗んだら、それはわかりやすい泥棒である。しかし、知らぬ間に郵便局と保険契約が結ばれ、毎月自動引落が行われていたらどうだろう。同じ泥棒でも、そちらはサイレント泥棒である。死ぬまで気づかずに郵便局から自動引落されている老人はかなり多い。

 

かんぽ生命、不適切な販売 顧客不利な契約に乗り換え

https://www.asahi.com/articles/ASM6R46MSM6RULFA001.html

 

 日本には石油のようなわかりやすい資源がない。代替として、日本人は自分の体や人生を宗主国に提供する。日本人が癌になるために食べる食品は宗主国の企業家を富ませるし、それを治療すための医薬品も彼らを富ませる。癌保険は彼らを富ませる。日本人は貯金をして彼らを富ませ、納税したら政府はアメリカ国債や株を買う。詳しくは第三十六回ブログを見ていただきたい。

 イランに対する支配は、パフラヴィーという王様を通しての石油支配であり、その意味では単純だった。他方、日本の場合には一本化できる年貢がないゆえに、項目は多岐に渡る。貯金、保険、税金、食品、医薬品、廃棄物、電気、水道・・・

 例えば、外国の汚染土を日本にばら撒いていいという仕組みも、年貢の納め方の一方法である(第三十四回ブログ参照)。将来的には蛇口をひねって水を出すだけで年貢を納めることとなる。その水を飲んで病気になり、薬を飲んだら、それも年貢となるし、病気に備えて保険に入ることも年貢となる。癌になって入院し、薬漬けになって死ぬことも年貢である。つまり、誕生から棺桶まで年貢である。

 このような複雑怪奇な植民地搾取となると、その全貌を描くことは極めて困難だ。このブログが長々と述べてきたことも氷山の一角に過ぎない。スポンサーや時間の制限がない個人のブログでさえ、その全貌を描くことが困難なのだから、新聞やテレビといった大手メディアが国民に伝えるとなると、ほぼ不可能となる。

 日常のニュースは、簡潔でわかりやすく、生活に直結するものが求められる。会社に行く前に見るニュースが複雑でわかりにくいものなら意味がない。ということで、大手メディアの報道は必然的に表面的事実を列挙したものとなり、深く抉った真相からは程遠いものとなる。こうして、複雑な植民地支配のシステムは国民のほとんどに伝わらず、「知らぬが仏」の状態となる。

 

2.完成された国体のシステム

 新聞やテレビといった「事実の切り取り」によるパッチワークが、日米関係の真相を伝えるのは条件的・構造的に不可能である。情報統制の圧力以前に、限られた時間で簡潔にこの複雑な内情を伝えることが不可能だからだ。それゆえ大手メディアに頼る人は事実の表面で満足する他はなく、満足できない人は新聞・テレビのレベルを越えて、書籍やインターネットの領域に自ら歩みを進める必要がある。

 こうして日米関係は日本人の生活の根幹でありながら、国民の多数派は「知らぬが仏」の状態になり、日本人でありながら日本の状況を知らないという日本国民が増産される。政治家や官僚も同様であり、CSISについてほとんど知らないという国会議員や官僚もいる。もちろん、下山事件について知っている日本人は少数派であろう。

 

日本が永遠にアメリカの植民地であり続ける原点は戦後最大の謀殺ミステリー『下山事件』にあった!

https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2015/08/23/52483/

 

 日本人は欧米の金持ちと違い、上流階級の暮らしも質素である。贅沢を好まず、普通の暮らしを愛する国民である。この性向は、高望みをしない代わりに、波風の立たない生活に対する強い執着心となる。贅沢を望まない心性は無欲とイコールではない。質素な生活を守るためには命懸けになるということである。これが内向きに働く時、同調圧力となる。

 なぜ日本人が宗主国のために身を犠牲にするのかと言えば、それはアメリカが好きだからではなく、自分の小さな幸せを守ることに必死だからである。戦前の日本人が爆弾工場で真面目に働き、町内会の竹槍訓練に休まず参加したのも、強力な同調圧力の中で自分を守ることに必死だったからである。戦後の芸能人が、家族がコロナウイルスに感染した際に謝罪するのも、そのためである。中国人は国家権力による暴力を恐れるが、日本人は国よりも隣近所を恐れる。草の根レベルの同調圧力が最も恐いのだ。

 これはアメリカがつくったものではない。空気を壊さず、黙って働くことを美徳とする日本のシステムは、アメリカが日本を占領する前に完成していた。GHQは既にあるシステムをうまく利用しながら日本を植民地化した。詳しくは白井聡氏の「国体論:菊と星条旗」(集英社新書)を読んでいただきたい。

 

白井聡 『国体論 菊と星条旗』 特設サイト|集英社新書

https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/special/shirai/

 

 これも日本とイランの違いであろう。疑問を持たずに勤勉に働くというシステムは、星条旗が入る前に出来上がっていた。本来、疑問を抱くことは健全な精神が持つ働きである。しかし国体のシステムではベルトコンベヤーを止めることよりも、目の前の業務に忠実であることが求められる。

 戦前の日本はこのシステムをもとに国民が一致団結することで先進諸国の仲間入りを果たした。戦後は同じシステムによって世界第二位の経済大国となった。こうして100年以上にわたって継続する国体システムは繁栄した。1945年にトップが「菊」から「星条旗」に変わっても、システム自体は変更がない。これは大企業において社長が交代しても社風が変わらないことと同様である。

 国体システムにおいて重要なことは一致団結である。これに疑問を持つことは、疑問を持たない人からすれば迷惑である。戦前は非国民として非難されたが、愛国心という抽象的なものより日本人を腹立たせることは、目の前の業務に手を止めることであり、既存のシステムの円滑な進行を阻害することである。

 

いじめの構造そのものを、ぶっ壊す可能性を提示しなければならない 岩田健太郎教授に聞く

https://shinsho.kobunsha.com/n/nf7b63d934f28

 

 システムに疑義を挟むことはサボりでもなければ邪魔でもなく、健全な精神が持つ疑問心であったりするのだが、円滑な進行を愛する生活者からすれば、それは阻害に見える。既存のシステムに対する愛着(執着)が疑問心より上回れば、新規のアイディアよりも同調圧力が勝利する。戦前では戦争に疑問を持つより真面目に爆弾工場で働くことが美徳とされ、現在では植民地支配のシステムが円滑に動くことが推奨される。

 岩田氏が言うように、これはシステムが機能している場合には強力だが、硬直的でもある。つまり、プランAがうまくいかない場合でもプランBに移行できない。Aのまま一丸となって玉砕するしかないのである。

 もちろん国民のほとんどは、自分の勤勉な仕事の成果が宗主国の利益となっていることを知らない。しかし、知ったとしてもそれは変わらないだろう。それぐらいこの国の植民地システムはうまくいっている。それはアメリカの統治が優れているというよりも、日本人がつくった国体システムが優れているからであろう。アメリカの支配を脱却することよりも、日本的システムから脱却することの方が、日本人にとっては遥かに難しいことなのだろう。

 

3.職人技による植民地統治

 皇軍が支配するか米軍が支配するかという問題は、日本人にとって形式的な問題に過ぎないのかもしれない。支配者が誰であろうと、国民が一致団結してシステムに盲従するのは変わらない。システムに疑問を持たず、黙々と目の前の仕事に従事することを美徳とする生き方は、戦前も戦後も変わらない。それに疑問を持つことは、この国では推奨されないことだ。

 100年以上続くこのシステムの中で、日本人の盲目的な勤勉性は最高に洗練され、高度に複雑化された植民地国家をつくりあげた。それはアメリカが力によって支配する植民地ではない。アメリカが発言する前に、日本のカポー達がアメリカを忖度して国を動かす国家である。それは、アメリカ人が「お茶をくれ」と言う前に、席に座ったと同時にお茶が出てくるような「おもてなし」である。以下は第三十五回ブログで引用した副島隆彦の文章であるが、もう一度引用しよう。

 

売国者たちの末路 副島隆彦 植草一秀 祥伝社 201

20021月に、田中角栄の娘である田中真紀子外務大臣を追い落とす動きがありました。リチャード・アーミテージ国務副長官が、自分と会わないと言った田中真紀子に怒り狂ったのです。真紀子大臣は、アメリカが日本に押しつけようとした、合計で4、5兆円もするMDmissile defense ミサイル防衛網)を買うことに反対し「日本は中国と敵対する必要はない」という考えからです。それで「田中真紀子を潰せ」となって、アーミテージ後藤田正晴事務所で岡崎久彦さん、佐々淳行さんと話し込んだそうです。

 そしてこのあと、日本のテレビ局5社、新聞5社の政治部長たちを集めて、裏の政治部長会議が開かれた。次の日から一斉に田中真紀子叩きが始まりました。このようなかたちでアメリカは、今も日本のメディアを自分たちの手足として操って使います。

 

 副島氏はアメリカが日本のメディアを手足として使うと言っているが、実際は少し違うのではないかと私は思っている。アーミテージはMDを即買いしない外務大臣に腹を立て、文句を言っただけかもしれない。そして、それだけで十分だったのだろう。細かい指示をしなくても、あとは優秀な日本人が全てやってくれるからである。この後日本の政治家や外交官、マスコミ幹部が力をあわせて田中真紀子を引きずりおろしたのは、アーミテージが考えた作戦ではなく、日本人が自主的に考えて実行したことかもしれない。

 イランにおける石油支配と違い、アメリカによる日本の統治は、日本人の生活の毛細血管にまで入り込んでいる。これはアメリカが入り込んだとも言えるが、日本人が引きずり込んだとも言えよう。アーミテージは以前、日本の高級官僚から「外圧をかけてくれ」と頼まれ、驚いたそうである。アメリカの政治家が日本の総理大臣や外務大臣を恫喝するのは、日本の官僚に頼まれてやっている可能性もある。

 日本という植民地は、日本人の職人技によって成り立っている面が強いのかもしれない。それは高級官僚のみならず、末端の人々の仕事や生活にも繋がっており、日常に根をおろしたものとなっている。こうなると、システムについて疑問を持つことよりも、システム内で職人として細かい仕事を行うことの方が推奨されることになる。

 これがイミテーション民主主義による植民地支配の成果であろうが、ここまで細かく洗練された植民地支配は、アメリカの力だけではできない。日本人の優秀な頭脳と真面目な国民性と根本的な愛国心の欠如がなければ不可能であり、この国の植民地システムをつくったのは、宗主国ではなくむしろ植民地の人間であろう。

 イランはアメリカの植民地になる前に「国体」というシステムがあったわけではない。「国体」によって世界第二位の経済大国になったという成功体験もない。日本のように植民地支配の搾取系統が細分化され、毛細血管に至るまで浸透しているわけでもない。イランは部族も違えば、考え方も違う人々による集合体である。またイラン人は日本人ほど忘れっぽくなく、昔にやられたことを執念深く覚えている。

 宗主国が同じでも、植民地の国民性が違うなら、統治のやり方も変わらざるを得ない。イランでは日本型の植民地支配を実行することは不可能である。勤勉で規律に富み、国体に対して思考停止の日本人と違い、イラン人に自由を与えれば独立しようとするのだから、自由を剥奪する王制のシステムをアメリカとしては支援する以外にない。

 本来のアメリカ人の感性からすれば、イランを統制のとれた美しい民主主義国家にしたかっただろう。しかし、イランを日本のような植民地にするには土壌が違いすぎた。日本はアメリカに占領される以前から国体のシステムは完成していた。岩田健太郎氏のような意見は、岩田氏出現以前からいくらでも存在する。しかし、国体システムはびくともしない。この国では異論は焼け石に水である。

 日本のような国なら、デモが起きても国体には響かない。

 

国会前反対デモ何人参加した? 警察「3万人」主催者「12万人」で4倍の差

https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150831/dms1508311204005-n1.htm

 

 日本人にとって国体は生活の基盤である。もちろん、ほとんどの国民にとってそれは意識されない。無意識的に国体で働き、生活し、喜怒哀楽をともにしている。この国では植民地支配は空気のようなものである。しかし、他の国ではこうはいかない。アメリカは日本のような植民地支配を夢見るが、日本以外ではなかなかうまくいかないのだ。

 

アフガニスタン和平合意――「最初の敗北」ベトナム戦争との類似性

https://news.yahoo.co.jp/byline/mutsujishoji/20200303-00165751/

 

 日本人はアメリカが世界最強だと思いこんでいる。しかし、それは日本人が勝手に思い描くイメージに過ぎない。アメリカが日本をうまく支配しているのは、アメリカ人が優秀だからというよりも、日本人が優秀だからであろう。

 日本のエリート層は愛国心がなく売国精神旺盛であり、世論操作がうまく仕事が細かい。平民層は真面目で勤勉、秩序意識が強く、団結力があり、システムに対して思考停止である。こうした二層で成り立つ日本は、植民地としては最高の土地ではなかろうか。そう考えると、日本でこれだけ成功したアメリカの植民地統治が、イランで失敗したのも、それほど不思議なことではないのかもしれない。

第六十回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(11)

0.シリーズの続き

 今回からイランの近現代史を振り返るシリーズに戻りたい。第五十七回ブログの続きである。

 

1.コムの小さな火がアーバーダーンで燃え上がる

 1978年1月7日、イランでエッテラーアート(Ettela'at)という保守系新聞に、ホメイニーを中傷する記事が載った。当時のイランのメディアは全て、政府による検閲を受けていた。そのためエッテラーアートの記事は単なる一新聞社の見解というよりも、政府発表として人々に受けとめられた。つまり、記事に納得できない人々の不満の矛先は、エッテラーアートよりも、政府に向けられた。

 翌日、この新聞記事がシーア派の聖都コム(Qom 現在はゴムGhomと呼ばれている)で、神学生によって手書きで複製され人々に配られた。間もなく学生たちの間で反政府デモが計画され、8日と9日に実行された。これに対して、パフラヴィー政府は警察と軍隊によって暴力的にデモ行進を鎮圧し、9日、神学生に死者が出た。死者数は5人から300人の間と言われているが、正確な数字は不明である。

 

シーア派聖地・ゴム ~ イスラム世界聖者廟のタイルが好き!

https://orientlib.exblog.jp/5219651/

 

 その40日後、犠牲者の追悼のためのアルバイーンがコムで行われた。アルバイーンとはアラビア語で40を意味する。つまり40日忌のことである。日本の場合は49日が法要であるが、イランの場合は40日なのである。

 

シーア派イスラム教徒にとっての重要な行事「アルバイーン」

https://blog.canpan.info/meis/archive/254

 

 この40日忌の参加行列に対して治安当局が暴力的に対処し、犠牲者が出た。その犠牲者を追悼するためのアルバイーンが40日後になされ、そこでも行列の民衆と治安部隊が衝突した。こうして、40日ごとに死傷者が出るというサイクルとなった。

 コムにおけるアルバイーンは本来40日ごとの服喪の行列であるが、反政府運動のデモ行進と混じりあったものであった。これを治安部隊が暴力的に鎮圧することで、ますます行列は追悼色よりも反政府デモの色調を増していった。これがテヘラン、イスファハーン、タブリーズ、マシャド、アーバーダーンといった各都市に飛び火し、反政府デモが全国的に行われることが当たり前となってしまった。

 こうして全国的にデモが燃え上がる中で、アーバーダーンで事件が起きた。アーバーダーンという街は「アーバーダーン危機」として有名な街であり(第五十回ブログ参照)、日章丸が石油を積み込んだ街でもある。つまり巨大な製油所を有し、常に石油を巡って油も人々の心も燃えるこの街は、歴史の転換点で何かが起きるのである。そして今回も事件が起きた。

 アーバーダーンの街にはシネマ・レックスという大きな映画館があった。1978年8月18日、ここで火災が発生し、観客数百名が焼死した。扉に鍵がかかっていたことも、犠牲者が大量となった原因となった。火災が放火だったのか過失だったのか、そしてなぜ扉に鍵がかかっていたのか。その事実関係はわかっていない。

 ただ、国民の間、特に政府に対して反感を持つ人々の間で、ある仮説が有力なものとなっていった。つまり、サヴァクおよびそれを指導するCIAが映画館に火をつけ、扉に鍵をかけたのではないかという仮説である。もちろん、これは仮説であり証拠はない。真実は放火ではなく、事故かもしれないし、放火だとしても犯人はサヴァクではないかもしれない。

 真相は闇の中であるが、パフラヴィー政府としては共産主義者犯人説が国民の間で有力なものとなることを望んでいた。その仮説が有力になれば、左翼を嫌う保守層の勢いが高まり、同時に共産党イスラム社会主義者を含む野党連合の間にもひびが入る。

 1933年2月27日のドイツ国会議事堂放火事件においては、「共産主義者の仕業だ!」というナチスの叫び声をドイツ国民が信じた。実際の放火犯はナチスだったわけだが、これを機に発令された緊急大統領令により、ナチス以外の政党は活動の自由が奪われ、議会制民主主義は死に体となった。翌月に全権委任法が制定され、ナチス独裁体制は完成することとなる。

 しかし、ドイツの放火事件から45年が経った1978年のイランでは、結果は逆になった。犯人はサヴァクか共産主義者か、それとも事故だったのかはわからないが、国民の多くが犯人は政府だと信じたのである。結局、アーバーダーンの火災は全国的に広がりつつあった反政府運動をさらに燃え上がらせることとなった。

 

2.アメリカはなぜイランの立憲君主制を許さなかったか

 さて、この時反政府運動を展開する市民連合は、何を望んでいたのだろうか。この運動が現在のイランのイスラム共和制に一本道で繋がるかと言えば、そうではない。というのも、当時のイラン国民の多数派が望んでいたことは立憲君主制であり、王制を撤廃することではなかったからだ。

 人々が批判する対象はモハンマド・パフラヴィーというシャー(王)の独裁であり、民主的に選ばれた首相がお飾りになっていたことであった。つまり、デモの多数派はシャーが立憲君主、つまり政治に口を出さない王様であることを望んでいたのであり、王制を撤廃することまでは望んでいなかった。ホメイニーとその支持者はこの時も、王制を撤廃してイスラム共和制にするべきと主張していたが、少数勢力に過ぎなかった。

 つまり、この時のイランの民意は立憲君主派が多数派であったから、宗主国であるアメリカがこれを支持していたなら、1979年のイラン革命は起こらなかったわけだ。結果、その後もイランはアメリカの植民地であり続け、現在のような一触即発のアメリカ・イラン関係は存在しなかったかもしれない。では、なぜこの時アメリカはイランの立憲君主派と手を結ばず、むしろシャーの後ろ盾となって民衆を弾圧したのか。

 アメリカは日本を占領した時、天皇大元帥の地位から引きずり下ろし、一切の軍事的・政治的な力を奪い、象徴化した。こうして日本を民主化することで、アメリカにとっての理想的な植民地につくりかえていったのだ。この時のイラン国民も、王の権力を弱め、民主的に選ばれた内閣が政治力を持つ国家を望んでいた。では、なぜアメリカは日本で王権を奪い、イランでは逆に強化したのか。

 それは日本と違い、イランに立憲君主制を許すと国民が選挙で独立派の首相を選んでしまうからである。実際にモサデク政権がそうであった(第五十一回ブログ参照)。宗主国の立場からすれば、植民地が民主化し、独裁政権という醜い体制から脱却することは大歓迎である。しかし、独立は困る。植民地の民主主義はあくまでもイミテーション民主主義であってもらわなければ困るのだ。

 日本は民主主義国家とは言っても、戦後70年以上に渡ってイミテーション民主主義を貫いている。二次大戦後、GHQ天皇から統治権を奪い、CIAの手下として自民党をつくり、これに植民地運営の全てを任せた。このシステムが非常にうまくいき、日本では選挙を何回行おうが、独立は決して争点とならず、自民党が勝ち続ける。国民も自民党というカポー政党に対して数多の不満を抱きながらも、政権を任せている。

 日本国民と自民党との関係は、冷え切った老年夫婦のようなものであるが、かといって離婚しても相手がいるわけではないので、諦めの境地で同居し続けている。こういう民主主義(民主主義もどき)なら、宗主国としても大歓迎である。しかし、イランの場合はここまでうまくいかない。

 イランに民主主義を許せば、国民は独立を志向する。イランが独立すれば、宗主国は石油を失う。なので宗主国からすると、日本に対して民主主義を推奨しても、イランに対して許すわけにいかないのだ。これは欧米人という宗主国からしても、苦渋の決断である。というのも、欧米人は保守であろうがリベラルであろうが、民主主義が大好きであり、独裁政治は大嫌いだからだ。

 欧米人は政治主張が保守であれ革新であれ、独裁制を生理的に嫌う。そのため、イランでパフラヴィー王が独裁により国民を迫害していると、自分でつくった政権なのにもかかわらず、生理的な嫌悪感を抱く。これは現在まで続いている欧米が抱える矛盾である。

 例えば、アメリカは長年にわたってサウジアラビアの王制を強力に支援し、石油と軍事の二面において、一心同体と言える体制を保持している。しかし、アメリカの議会内ではサウジの王制を激しく嫌悪する政治家が保守、リベラルを問わず多数いる。おそらく、本音ではサウジの王族を好きなアメリカ人はほとんど存在せず、サウジと太いパイプを持つブッシュ・ファミリーも、心の底ではサウジの王族を軽蔑しているのかもしれない。

 しかし植民地の経営は、欧米という国家体制の根幹である。欧米の国々は、植民地の住人である日本人からすれば独立国に見えるかもしれないが、蓋をあければ、あれらの国々は植民地に依存している国々である。かつてのアメリカ南部の綿花農園の主人が、黒人奴隷がいなければ一日たりとも生活できなかったのと同じように、宗主国は植民地からの搾取なくして生きていくことはできない。つまり、宗主国とは自分の力だけでは食べていけない依存国家なのである。

 自給自足でやっていける国家と違い、植民地を持つ国々、すなわち宗主国にとって、安定した植民地経営は国家経営の柱である。植民地から搾取し、その利益を宗主国に還流させることで、彼らはようやくその血流を保っている。それゆえ独裁制を生理的に嫌い、民主主義を好むとは言っても、植民地の全てを民主主義国家にするわけにはいかない。

 日本のように、民主化しても国民が選挙でCIA政党を自主的に選んでくれる国なら、宗主国としても問題はない。しかし、イランのように独立を志向する国民に民主主義を与えるわけにはいかない。それゆえ宗主国としては、生理的に嫌悪する独裁者をイランにおいて支援し、その体制を維持させる他はない。これは白人の感性からすれば苦渋の決断であるが、仕方ないのである。

 

3.苦渋の決断から敗北へ

 欧米人は植民地から搾取する。そもそも関係のないよその国を植民地にするのは、搾取するためである。しかし、欧米人は無秩序な国が大嫌いである。

 豚の糞が混じった土を裸足で歩く子どもたち。狂犬病をもった野良犬がうろつく市街。子どもを借金のカタに売春宿に売り払う親。義務教育の観念がなく、子どもたちを学校に行かせず農場で働かせる親たち。病気になったら病院に行くのではなく祈祷師のところへ行く人民。武力で独裁する政治家を尊敬する国民。泥水が出てくる水道。賄賂が横行する役所。弁護士の存在しない裁判。

 こういった非欧米的な国家は、欧米人からすれば後進性であり、生理的な嫌悪感を喚起させる。彼らは物質的な不衛生について「汚い」と思うと同時に、それを不衛生と思わず、平気で暮らしている人々の精神性に対しても「汚い」と思う。それゆえ、発展途上国を誰よりも搾取する人間が欧米人であり、同時にそうした国々の衛生化と秩序化、近代化に誰よりも励むのも欧米人である。途上国に対する搾取と支援は表裏一体だということだ。

 アメリカはイランの近代化に尽力し、裸足で土の上を歩く子どもたちを減らし、読み書きができず農場で働く子どもたちを学校に通わせ、近代的なビルのオフィスで働く女性の数を増やし、羊飼いの男をスーツを着て営業するビジネスマンに転職させた。これはこれで偉大な功績であったが、同時に宗主国はその国の資源を奪い取った。近代化のおかげでビジネスマンになれたイラン人は、いつのまにかアメリカの石油会社を富ませるための仕事をすることとなった。

 宗主国と植民地の間でこうした矛盾が生じても、アメリカとイランの関係が日米関係のような洗練され、高度かつ複雑につくられたものだったなら、パフラヴィー朝イランはもっと長続きしただろう。しかし、イランとアメリカの関係は、日米関係のように高度に発展したものではなく、やむを得ず二段階目を選択したものであった。

 第五十一回ブログで述べたことだが、再び列挙しておこう。宗主国にとって望ましい植民地のリーダーは、次の順位となる。

 

宗主国の言いなりになる民主主義者

宗主国の言いなりになる独裁者

③独立を志向する独裁者

④独立を志向する民主主義者

 

 欧米人からすれば独裁者は汚らわしい存在であるから、植民地経営を任せる現場監督は①が望ましい。つまり、植民地の統治システムは民主主義が望ましい。しかし、イランに民主主義を許すと、イラン国民は投票で④を選んでしまう。④は宗主国からすると最悪である。石油を失うなら植民地経営の意味がない。

 日本人は戦後の民主主義の歴史において、何度選挙をしても①を選んでくれるという、宗主国からすれば素晴らしい国民(奴隷)であるが、イラン人に選挙をさせると④を選びかねないので厄介である。そのため、アメリカとしては②の策でいくしかなかった。この苦渋の決断が後で綻びとなる。

 ②は①に比べれば、統治機構として脆い。国民は自分で選んだわけではないリーダーに屈従することになる。当然、国民の不満は②に向かう。①なら、国民の不満が政権に向かっても、総理大臣というカポーの首を挿げ替えればよい。国民は選挙によって自分のリーダーを選んでいるのだから、そのリーダーに不満があっても、選んだ国民の自業自得である。

 ①の体制には必ずこの「自業自得」がつきまとうが、②にはそれがない。不満は全て王様に向かう。王様はそれを抑圧する。すると国民はさらに不満を溜める。独裁制には「自業自得」というシステムがないため、独裁者が国民の不満の受け皿にならざるを得ない。そのため、強権政治の基盤は極めて脆く、王様の椅子は王を24時間不安にさせ、王冠は王の頭に悩みを注入する呪われた金属である。

 パフラヴィー王制は1978年のコムのデモから、一年で滅びた。つまり、アメリカは日本を占領した時と違い、イランという地では理想的な植民地経営はできなかったのである。アジャックス作戦でイランの独立を潰した時から、アメリカはイランの民主主義を否定していた。しかし、理想的な植民地経営は民主主義による経営である。イランを民主化できなかった時点で、アメリカの敗北は決まっていたのかもしれない。

第五十九回 新型コロナウイルスについて報道しない自由(2)

1.憲法22条とその例外としての感染症

 「人は誰でも知られたくないことがある」という言葉は、巷間でよく聞かれる。社会常識になっていると言ってもいい。それゆえ法的にも個人情報保護法が定められ、隠したいことは隠せるようになっている。ただ、問題は政府も隠したいことがあるという点にある。戦前の日本は秘密主義の中で戦争をし、その反省から、戦後の憲法では国民の「知る権利」が保障されている(憲法21条)。つまり、政府が隠しごとをすると憲法違反になる。

 しかし、前回のブログで述べた通り、戦前も戦後も政府が肝心なことを隠すという事実は変わらない。戦前は国民に「知る権利」がなかったので政府は何の躊躇いもなく情報を隠蔽したが、戦後はそうはいかないので、高度なテクニックを駆使して隠す。その片棒を担ぐのが大手メディアである。つまり、事実Aを隠すために、事実Bを大声で報道する。

 もちろん、現在の日本ではコロナウイルスについて緊急事態宣言が発令されており、これについて国民が知ることは大事であるから、各報道機関がこの問題を強調して取り上げることは必要である。しかしそうした報道だけを見ていると、まるで日本政府は国民に対してひたすら要請をしているように見える。

 確かに、政府の緊急事態宣言には、個人の移動制限を「要請」または「指示」できるのみで、罰則はない。戦前なら強制的に個人の移動を制限することが可能であったが、戦後は個人の移動の自由が憲法22条により定められているために、「要請」または「指示」に違反する個人に対して国が罰を与えることは基本的にできない。

 

憲法22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

 

 中国では外出した人を警察官が逮捕できる。これは憲法22条がないためである。22条が定める「移動の自由」は人権国家では極めて大事な考えであり、それは単なる外出や引越の自由に留まるものではない。22条は他の条文(権利)と連動するからだ。

 例えば「知る権利」を遂行するため集会に参加する目的で移動する場合は、22条が21条の「表現の自由」と連動した人権となる。また、危険な場所を避けるために移動する場合は、22条が25条の「生存権」と連動した人権となる。そのため22条は重要な条文であり、これを守るために日本では緊急事態宣言による移動制限に罰則がないのだ。

 もちろん、22条もそうだが、憲法上保障されている人権は全て「公共の福祉に反しない限り」という制約がある。それゆえ、「公共の福祉」の範囲内なら移動制限に関する法律を制定することは、日本においても可能である。しかし、あくまでもそれは個人の自由を尊重し、やむを得ない場合の制限として可能であり、中国のように「まず統制ありき」の法律は制定できない。

 前回のブログで紹介した「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」が正にそうである。動画でも紹介されている同法33条を見ていただきたい。

 

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律 第33条

都道府県知事は、一類感染症のまん延を防止するため緊急の必要があると認める場合であって、消毒により難いときは、政令で定める基準に従い、72時間以内の期間を定めて、当該感染症の患者がいる場所その他当該感染症の病原体に汚染され、又は汚染された疑いがある場所の交通を制限し、又は遮断することができる。

 

 例えば、エボラウイルスのような致死性の高いウイルスによって道路が汚染された場合は、消毒のために72時間という制限付きであるが、道路を封鎖して憲法22条の「移動の自由」を一時的にストップできる。これは正に「公共の福祉」のために憲法上の人権が制約されてもやむを得ない場面であるから、この法律は合憲と言える。ではこの法律が定める「一類」のウイルスにコロナウイルスを含めた2020年3月26日の政令変更は合憲であろうか。

 

2.問題はこの法律ではなく「報道しない自由」

 3月25日までは、この「一類」に指定されたウイルスはエボラやペストといった極めて危険なウイルスであった。これが改正され、令和2年3月26日 政令第60号によって、「一類」にはコロナウイルスも含まれることとなった。つまりこの法律は、緊急事態宣言における「要請」または「指示」といった「お願い」レベルとは違い、強制力を伴った移動制限なのである。

 緊急事態宣言についてばかり報道されていると、まるで国民の移動の自由は全面的に認められ、強制力のある法律は存在しないかのような印象を受ける。国はひたすら国民に対して不要不急の外出はしないよう「お願い」をしているように見える。これが事実Bとして繰り返し報道されると、事実Aの方に国民の目が向かなくなる。

 事実Aの方は「お願い」レベルの法律ではない。罰則を伴った強制力のある法律である。これが「感染症法」に関連する「政令60号」である。先にも述べた通り、中国のような強権国家ならいざ知らず、人権国家においては「移動の自由」は極めて重要な権利である。そのためそれを国家が強制的に制限する法律が制定されたのなら、ジャーナリズムが国民にそれを紹介し、考察を加え、その論説を明らかにすべきであろう。

 もちろん、政令60号自体が違憲であるかと言えば、そうではない。国民の移動が制限されるといっても「72時間」という限定があるからだ。動画の中で山尾志桜里衆院議員が解説している通り、この法律の範囲内で「72時間」を延長することは難しい。元検察官の彼女が説明する通り、この法律が言う「72時間」を延長するなら、感染症法における「入院措置」規定との整合性がとれなくなるからだ。

 同じ感染症法の枠内で、片方が72時間の制限を設け、かつ延長規定がなく、片方の「入院措置」の方には延長規定があるのなら、山尾議員が言うとおり、延長を想定する場合は延長規定を明文化していなければならない。これは法学における基礎中の基礎(彼女は「ウルトラベーシック」と呼んでいる)であるから、延長規定なしの条文で延長するという執行は、常識的には不可能である。

 そのため、政令60号には72時間という制限があり、憲法上の「移動の自由」が制限されると言っても72時間以内なのだから問題はないと言えるだろう。だが、問題はこの法律が違憲かどうかということではなく、あらゆる報道機関が報道しないことである。この法律が違憲でないとしても、コロナウイルスを原因として道路封鎖ができるという日本で初めての法律であることには変わりない。

 また、そもそもエボラやペストのような感染力の強いウイルスと違い、コロナウイルスの場合には人との近距離による飛沫感染が問題である。つまり、コロナウイルスに汚染された道路を消毒する必要性よりも、どうやったら人との接触回数を減らし、飛沫を浴びる機会を減らすことができるかが焦点のはずである。「3密」を避けるために繁華街に出ないという対策は理解できるが、道路を消毒するという場面はあまり想定できない。

 結局のところ政府は政令を発表しただけで説明がなく、大手メディアも「報道しない自由」によって報道しないので、改正の趣旨については曖昧なままである。改正された法律が違憲でないとしても、運用の趣旨が不明瞭なら、こちらの方で勝手に推測するしかないだろう。

 また、今回このような強制力のある法律が成立し、かつあらゆる報道機関が報道しないとなると、次に強制力がある法律が成立してもまた報道しないのではないかという予想が成り立つ。つまり、国民が強制力のない緊急事態宣言にばかり目がとらわれているうちに、強制力のある法律がいつのまにか成立しているという可能性があるのだ。

 

3. 政令60号に対する勝手な推測

 以前から疑問に思っていたことがある。仮にコロナウイルスのオーバーシュート(爆発的感染拡大)が日本で起こるとしたら、皇族や金持ち、あるいは宗主国の外国人はどうやって逃げるのかと。共産主義国家や独裁国家なら問題はない。戒厳令で国民を家に閉じこめ、空いた道路を特権階級が車で移動すればいいだけのことだ。しかし、日本では憲法22条で全国民に移動の自由が保障され、緊急事態宣言下でも政府は国民に対して移動の制限を「要請」または「指示」するという「お願い」しかできない。

 また、日本には特権階級という考えが憲法上認められていない。戦前には法律により爵位が認められていたが、戦後の憲法華族制度は廃止されたためだ。それゆえ上級国民や特権外国人(CSISやCFRの人達)を一般国民よりも先に逃がすという法律がつくれない。

 

憲法14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。華族その他の貴族の制度は、これを認めない。栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 

 憲法上は完全な平等が保障されても、実際の日本は階級国家であり、政府としては緊急事態においては道路を封鎖し、皇族や上級国民だけが道路を通れるようにしたい。宗主国の高級外国人ならそれ以上に大事だ。となると、一般国民はオーバーシュートになっても勝手に移動されては困る。渋滞になってしまったら、道路が使いものにならない。

 そこで私が勝手に推測したのだが、例えば東京に居るロックフェラーさんを他の国民より優先して逃がしたいとなると、一般国民から道路を一時的に(72時間くらい?)取り上げる必要がある。しかし、現行法ではエボラなどの「一類」ウイルスでないと道路封鎖はできない。そこで政府は急いで、しかも極めて静かに政令60号をつくったのではないだろうか。マスコミもそれに協力し、神保哲生氏という空気を読まないジャーナリスト以外は波風を立てずに沈黙を守っている。

 そう考えると、政府の人達も大変だと同情せざるをえない。日本は形式的には人権国家であり、国民主権であり、平等である。しかし内容的には植民地であり階級国家である。緊急事態において偉い人達を先に逃がすという法律は人権国家の建前上できないが、植民地という内容上どうにかしてつくらなかくてはならない。

 動画の中で山尾さんは「とにかく急いでいた」と言っていたが、もしかしたら感染者急増の中で政府の人達は上(外国人)から「早くつくれ」と急かされていたのかもしれない。上級国民も宗主国の人達からすれば召使いである。宗主国の方たちが日本に滞在している間に、万が一のことが起きてはならない。彼らは日本の各地を案内し、おもてなしツアーを終えたら本国に無傷で送り届けなければならない。大変な仕事である。

 

乾杯するロックフェラーJr.夫妻と安倍昭恵

https://mamorenihon.wordpress.com/2013/11/11/rockefeller-abeakie/

 

4.高度に進化した大本営発表

 何のために報道の自由が保障され、検閲は許されないと憲法に明記されているのか。それは国民の「知る権利」が侵されるからである。もし北朝鮮や中国のように報道の自由がなく、検閲が当たり前のように行われるなら、報道が一枚岩になってしまう。そうなると、多様な視点からの報道が行われなくなり、国民は一種類の情報しか受け取りようがない。

 つまり、報道の自由が保障されることの目的は、報道の一枚岩を避けることである。つまり、日本国憲法が定める「表現の自由」(21条)の文言には、言外の期待がある。それが報道の多様性である。戦前の憲法には「表現の自由」が認められていなかったので、報道は一枚岩だった。そこで戦後の新憲法表現の自由を保障し、これによって報道は自由なものとなった。鳥は籠から出され、自由に大空を飛ぶことが期待された。

 しかし現実には、鳥は籠から解き放たれた後、自分で籠をつくってしまった。これが日本記者クラブなどの大手メディアがつくった籠であり、こうなると憲法は手の施しようがない。国が検閲をしなくても、報道機関が自分で自分を検閲するようになる。これはある意味、独裁国家の検閲より強力だ。国の検閲は市民革命によって覆すことが可能かもしれないが、企業の自主検閲を覆すための革命は存在しない。

 国際金融資本家などの支配層、いわゆる富の1%を握っている欧米人が、なぜ世界中の国を民主主義国家にしたいのかという意図も、これを念頭に入れるとわかってくる。民主主義国家になれば、報道機関は報道の自由を自主返納し、国民に真実を伝えなくなるからだ。そして、自由国家のメディアが持つ騙しのテクノロジーのレベルは、共産主義国家のそれとは比較にならないほどに高度だ。

 これは、単純権力国家のメディアが報じるわかりやすい嘘よりも、ある意味タチが悪い。自由国家のマスコミは基本的に嘘をつかず、数字も正確である。しかし、その数字は「この計算式を使うなら結果はこうなる」という限定的な仮定をもとにした数字であるし、何より肝心な事実を隠すために、二次的、三次的な事実を声高に騒ぎ立てる。そうやって、国民に重要なことを考えさせないようにするのだ。

 これはある意味、高度に進化した大本営発表である。戦前の大本営発表は単純なものだった。負け戦を「勝った、勝った、また勝った」と嘘の報道をした。現在の報道機関はそんな単純な嘘はつかない。むしろ嘘ではない数字や事実を巧みに操作し、ほとんど嘘をつかずに国民を騙すことに成功する。その技はあまりにも高度で洗練されているから、ほとんどの国民は進化した大本営に印象操作されていることに気づかない。

 となると、報道について考えれば考えるほど、問題は一回転して自分に戻ってくることになる。つまり、独裁国家であろうが自由国家であろうが、報道機関に真実を期待してもダメだということである。国家体制が変わることで報道機関が一般市民の味方をすることはありえない。政治システムがどうであれ、彼らは常に権力と一心同体なのだ。

 それなら、もし私が真実を知りたいなら、大手マスコミが情報をおろしてくれるのを棚から牡丹餅式に待っているだけでは駄目だ。真実を知りたいなら、自分で調べて、自分で考える他はない。大手マスコミに頼ることができないのは、共産主義国家であろうが自由主義国家であろうが同じだ。ならば、私がジャーナリズムに頼るのではなく、私という個人が一つのジャーナリズムになるしかない。倒すべき独裁者が存在しない以上、敵は国家ではなく、自分自身の無知と無思考、そして依存心だからである。

 

第五十八回 新型コロナウイルスについて報道しない自由(1)

0.予定変更

 前回までイランの近現代史を見ることで、イランとアメリカの対立の原因について考えてきた。今回もその続編を書く予定であったが、予定を変更し、今回と次回の二回にわたり、コロナウイルスについての法改正およびその報道について述べていきたい。

 

1.「小鳥の囁き」と「報道しない自由」

 現在、日本政府は新型コロナウイルスについて緊急事態宣言を発令中である(2020年4月7日発令)。実はこの国ではもう一つ緊急事態宣言が発令されている。それが2011年に出された原子力緊急事態宣言である。これは現在も解除されていない。つまり継続中なのだが、それについて知っている国民はほとんどいない。現在、この国は放射能コロナウイルス、二つについて緊急事態なのである。

 

原子力緊急事態宣言下の人権と健康被害|季論21

http://www.kiron21.org/pickup.php?31

 

 政府が緊急事態を宣言すると、平時では不可能な人権制限が可能となる。緊急事態なのだから仕方がないということである。例えば、平時の規制なら1ミリシーベルト以下とされていた放射線量が、緊急事態宣言以後、20ミリシーベルトまで許容されている。また、1キロあたり100ベクレルを超える土壌は再利用が禁じられていたが、宣言以後8000ベクレルまで許容されている。

 詳しくは第三十四回ブログを参照していただきたいが、放射能が危険なこと以上に、国民の勘違いが危険である。というのも、緊急事態を緊急事態だとわかっていないと、危険なものを安全だと勘違いすることになりかねないからだ。

 例えば園芸用の土をホームセンターで購入し、自宅の庭に撒き、野菜をつくって食べたとする。平時ならその土はキロあたり100ベクレル以下である。しかし緊急事態下では8000ベクレルの可能性がある。子どもが公園の砂場で遊んだら、その砂は8000ベクレルかもしれない。平時では全く問題のない土や砂が、緊急事態下では危険物になりかねない。

 平時では何の問題もなかったエレベーターのボタンが、コロナウイルスの蔓延によって危険物となる。それと同じように、平時では何の問題もなかった土が、空気が、水が、食べ物が、原子力緊急事態宣言下では思いもよらずに危険物となる。これが「緊急事態」ということの意味である。

 この結果、被害がどう具体化するかはわからない。わかるのは、結果がどうあれ、その責任は国民が負うということである。つまり、緊急事態下で8000ベクレルの土をいじって健康被害が起きても、政府は責任を取らない。それは、コロナウイルスについて緊急事態が宣言されている中で「3密」のライブハウスに行ってウイルスに感染するのと同様、自業自得となる。

 

2016.4.13復興特別委員会「汚染廃棄物、うすめて広くバラマキます」

https://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/5801

 

 中国や北朝鮮などのような共産主義国家の場合、国家が国民の健康について責任を負うということはない。土に危険物が混じっていても、国家はそれを国民に知らせない。また、国民に健康被害が出た場合も責任を持たない。では、民主主義国家である日本の場合、国は国民の健康に責任を持ってくれるのか。

 ある意味、答えはYESである。例えば、情報の公開という意味では、日本政府は国民に責任を果たしている。日本のような民主主義国家は、共産主義国家と違い、土壌に8000ベクレルの放射性物質が混じっているのなら、それをきちんと公表する。また、それは平時と違い、緊急事態におけるやむを得ない措置なのだということも公表する。そこに共産主義国家のような秘密や隠蔽はない。

 しかし、ある意味答えはNOでもある。そうした政府発表は小鳥の囁きよりも小さく、マスコミもそれを報じないからだ。こうして民主主義国家の「発表」は、結果として共産主義国家における「隠蔽」と同じ効力となる。つまり、それは発表と気づかれない発表であり、発表なき発表である。

 民主主義政府による「小鳥の囁き」と、大手メディアによる「報道しない自由」(第十八回ブログ参照)は、二つでセットである。これにより民主主義国家の国民は、共産主義国家の国民と同じように、現在自分が置かれている緊急事態を平時だと勘違いする。

 共産主義国家なら、国民は政府を恨むことができるだろう。政府が事実を発表しない。あるいは事実を捻じ曲げて発表する。国民に知る権利がない。国民は「民主化」の革命に希望を託すようになる。しかし民主主義国家においては、国民がそのような希望を持つことができない。国民には知る権利がある。憲法でも保障されている。政府は事実を発表する。しかし、マスコミがそれを報じるかどうかは私企業であるメディア会社の自由である。

 こうして「小鳥の囁き」は「報道しない自由」と共犯で国民を欺く。国としては自らに落ち度はないと言うだろう。その発表が「囁き」よりも小さかろうが、「発表」という責務を果たしたのだから責任はないと。マスコミも自らに落ち度はないと言うだろう。マスコミ各社は私企業であり、何を報じて何を報じないかは会社の自由なのだからと。

 かくして、そのツケはすべて国民にまわってくる。国民はそれを国やマスコミのせいにはできない。革命で打ち倒すべき敵は存在しない。自由と民主主義の中で、国民は真相を知らぬままに死んでいく。「知らぬが仏」という意味では、民主主義も共産主義も同じだということになる。

 

2.民主主義国家は事実で騙す

 民主主義国家においては憲法上「知る権利」が保障されているため、共産主義国家や独裁国家と違い、真実が隠蔽されず、国民に正しい情報が届くように見える。しかしそれは「見える」だけであって、民主主義国家であろうが独裁国家であろうが、政府が隠したいことを好きなように隠すことができるという事実は変わらない。

 独裁国家共産主義国家は、事実の隠蔽のために強権を用いる。つまり、国民の知る権利を国家権力が制限する。他方、民主主義国家の場合には憲法によって強権に歯止めがかけられている。そのため、民主主義国家は「小鳥の囁き」と「報道しない自由」という代替兵器を駆使する。これにより民主主義国家は、独裁国家共産主義国家に劣らない、あるいはそれ以上の隠蔽力を持つことになる。

 「それ以上」と言うのは、民主主義国家には「事実で騙す」という強力な武器があるためである。独裁国家共産主義国家には、そのような高度な武器を持てない。なぜなら、強権的な国家には報道の自由がなく、国民が報道に対して懐疑的であるために、事実に対する信頼性がないからである。例えば、中国政府が発表するコロナウイルスの死者数を、まともに信じる日本人はほとんどいないだろうが、中国人も信じない。

 他方、民主主義国家においては報道の自由があるために、事実に対する信頼性が高い。高度に発達した民主的な情報社会においては、強権国家のような子ども騙しの嘘はまったく通用しない。政府発表にしてもマスコミ発表にしても、事実の歪曲はすぐにバレてしまう。そのため、政府が事実を隠したい場合は、嘘で国民を騙すことはせず、事実で騙すのだ。

 例えば、加計学園獣医学部が新設されたという問題があり、NHKは以下のように報じている。

 

加計学園 獣医学部新設問題

https://www3.nhk.or.jp/news/special/jyuui_gakubu_shinsetsu/

 

 ここで政府が隠したい事実は、生物兵器の開発であるが(第二十九回ブログ参照)、共犯者としてのマスコミはそれを報じず、どうでもいい問題で騒ぐ。例えば、総理のお友達が優遇され、文科省がそれを忖度し、通常なら認可を与えないはずの獣医学部新設を認めたという話である。確かに、官僚の忖度や官邸の圧力というトピックも嘘ではないだろう。しかし、政府が本当に隠したい事実はそちらではなく、バイオ兵器の問題である。

 

石破茂氏の発言で懸念広がる加計学園の「バイオハザード問題」

https://nikkan-spa.jp/1372508

 

加計学園問題と新たな軍学共同

https://www.huffingtonpost.jp/ikeuchi-satoru/kakegakuen-biochemical-weapons_a_23249748/

 

 ここで便宜的に、政府が隠したい事実をAとし、大手マスコミが声高に報道する事実をBとしよう。共産主義国家においては政府とメディアが上下関係として一心同体であるが、民主主義国家においては政府とメディアは並列的に一心同体である。つまり、政府のパートナーであり共犯者であるメディアは、共犯によって既得権益を維持する(第十七回ブログ参照)。

 政府がAを隠したい場合、メディアがそれに協力することで貸しをつくる。政府は借りを返すために、大手メディアにだけ情報を提供する。こうして、大手メディアに政府関係の情報が集中し、既得権益が構成される。メディアは出してもいい情報だけを出し、売上をたてながらAを隠す。そして、国民の目をAからそらすために、あえてBを声高にまくし立て、国民感情を扇動する。

 こうして国民の目がBに集中することで、肝心のAは隠される。例えば国民は報道により加計学園というそれまで聞いたことがない学校について詳しくなるが、肝心なことはほとんど知らないということになる。自分が払った税金の一部が、米軍と共同のバイオ兵器の開発費に使われることを知らない。これが「印象操作」である。

 Bについて詳しくなればなるほど、反比例としてAについて盲目になる。こうして国民は、総理がお友達を優遇したとか、一緒に桜を見たといった問題で怒るようになる。しかし、本当の問題はそんなことではない。国民の税金によって開発されたウイルス兵器が、アメリカの敵国でばら撒かれたら、日本国民も共犯者である。「知らなかった」という言い訳は、被害者には通じないだろう。

 

3.小鳥の囁きは難解である

 この国の報道機関は原子力緊急事態宣言について報道せず、コロナウイルスの緊急事態宣言については声高に報道する。つまり、事実Aが原子力緊急事態宣言であり、コロナについての緊急事態宣言は事実Bである。政府およびそれに付随する特権階級からすれば、一般国民はコロナについて詳しくなっても、放射能については知らなくてよいのだ。

 大手マスコミが連日のようにコロナウイルスの緊急事態宣言を声高に報道するということは、それについては国民に知ってもらいたいということである。そうやって毎日勉強して、人に迷惑をかけない国民になってほしいということである。もちろん、これ自体が悪いことではない。我々がコロナウィルスについての緊急事態について知ることは確かに必要である。

 

NHK 「緊急事態宣言」で暮らしはどうなる

https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/tokyo/emergency.html

 

 しかし、大手マスコミが熱心に事実Bについて国民に説明するということは、その裏に事実Aがあるということである。ではコロナウイルスについての事実Aとは何か。この点、ジャーナリストの神保哲生さんは「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」および「新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令の一部を改正する政令」が問題であると説明している。

 

政府が密かに手に入れていたロックダウン権限を検証する

https://www.youtube.com/watch?v=7q4ZldlXy0E

 

 当然、この法律および政令については新聞もテレビも、大手は絶対に報じない。また「小鳥の囁き」は小さな声で囁かれるだけでなく、一般国民にとっては非常に難解な言葉で囁かれる。例えば、以下のページを見ただけでは、コロナウイルスについて政府が一体何を考えているのか、普通はよくわからないだろう。

 

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=410AC0000000114

 

新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令の一部を改正する政令(令和2年3月26日 政令第60号)

https://shop.gyosei.jp/online/archives/cat01/0000015983

 

特別号外 - インターネット版官報

https://kanpou.npb.go.jp/20200326/20200326t00033/20200326t000330001f.html

 

 東京新聞は以下のように報じているが、これだけでは政令の問題点がまったくわからない。

 

感染恐れ建物立ち入り制限可能に 政令改正、病原体も分類

https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2020032601001935.html

 

 政府によって難しい言葉で発表され、かつマスコミはそれを噛み砕いて説明しないということは、この法律および政令については事実Aであるから一般国民は知らなくて結構ということである。そうした政府の意向に逆らい、あえて事実Aについて知りたいという方は、上記神保さんの動画を見ていただきたい。また、この動画の内容についての私の考察は、次回に述べたいと思う。

第五十七回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(10)

1.国境という怨嗟

 アフリカや中東では、長年に渡った西洋による植民地支配の爪痕が今も残る。それが国境である。エジプトの国境線はエジプト人が決めたものではなく、イラクのそれもイラク人が決めたものではない。つまりイギリス人が決めた国境線の中に、言語、宗教、民族の異なる人達が詰め込まれ、現在の国ができているのである。

 湾岸戦争(1990年8月2日-1991年2月28日)はイラククウェート侵攻からはじまったが、イラクの言い分は、「もともとあの土地はイラクのものだった」というものだった。もちろん、これはクウェート側からすれば侵略の言い訳にすぎず、納得できるものではない。それゆえ世界の論調は「イラクが悪い」ということでまとまっていた。

 しかし、中東の国境線がイギリスなどの侵略者によって決められたことを考慮すると、「あの土地はもともとイラク人のものだ」という視点も、まったく理不尽な主張とは言えなくなる。イラククウェートの国境線は、イラク人でもクウェート人でもなく、イギリス人が決めたものだからだ。

 

イスラム国が是正したい「不自然な国境線」 世界地図から見えてくるアラブの怨嗟

https://toyokeizai.net/articles/-/72795?page=2

 

 アフリカで頻繁に内戦が勃発するのは、国境線の内側に言語、宗教、民族の異なった人々が詰め込まれているからである。フセイン時代のイラクも同じで、一枚岩とは程遠い国家である。言語はアラブ語とクルド語の二つ、宗教はシーア派が6割、スンニ派が3割5分、残りがキリスト教その他である。そのため国内でアラブ人とクルド人が対立し、シーア派スンニ派が対立する。

 第四十四回ブログで、イランのコッズ部隊について説明したが、イランには国外にイランの味方をする政党(軍隊)がいる。それがパレスチナハマス、ヨルダンやシリアにいるヒズボラレバノン西部にいるフーシである。つまり、そういった国々は内部で分裂しているということである。

 例えばレバノン政府がフーシに対して「イランの味方をするな」と命じても、言うことをきくはずがない。むしろ、フーシはレバノンからの独立を主張している。こうした分裂は、人工的に国境線が定められた国の宿命と言える。

 中東の国々で民主主義が育たず、独裁国家が多いことの理由は、このような内部分裂にある。例えば、もしイラク住民投票をするなら、シーア派の政策が過半数を取るに決まっている。約6割の国民がシーア派だからである。多数決で物事を決めるなら、スンニ派はいつも負ける。そうなると、不満をかかえたスンニ派が内戦を起こしかねない。

 ここで便利な政治システムとして登場したものが、イスラム社会主義である。アッラーの下での平等を旨とし、かつ宗教による依怙贔屓を認めない。イスラムを尊重しながら、宗教を政治に持ち込ませないために、「社会主義」という方便が有効になるのだ。当然、そこでは「平等」と言いながら大統領の独裁政治となる。強権によって反対派を抑えつけなければ、簡単に内戦に発展するからだ。

 第五十一回ブログでも述べたが、欧米人は民主主義が大好きで、中東やアフリカの独裁国家が大嫌いである。彼らからすれば、そうした国々の独裁者は生理的な嫌悪感を催させる存在である。彼らは世界中の国々が民主主義国家になればいいと思っている。しかし、中東やアフリカの人々からすれば、自国が民主主義国家になれない原因をつくったのは欧米人である。

 また、民主主義国家をつくろうとしても、それを阻むのも欧米人である。欧米や日本では、アジャックス作戦(第五十一回ブログ参照)はあまり知られていない。しかしイランをはじめ、中東の人々からすれば、アジャックス作戦によってモサデク政権が潰されたことは、有名な事件である。つまり、中東の人達からすると、民主主義を押しつけてくるのも欧米人であり、民主主義を潰すのも欧米人である。

 

イランはアメリカを二度と信用しない

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/05/post-10191.php

 

 ホメイニーはアメリカを「大悪魔」と呼んだ。中東情勢をよく知らない日本人からすれば、この発言はイスラム原理主義者の狂信的な反米感情の現われのように見える。しかし、中東では説得力のある言葉である。彼らからすれば、アメリカに支配されながらアメリカ大好きな日本人は、もしかしたらとても不思議な民族に見えるのかもしれない。

 

2.対立の深まりとホメイニーの成長

 中東の人々は、欧米の援助、特にCIAの援助を受けた政治家たちが、西洋の高級スーツを身にまとって国家の近代化を成し遂げる姿を見続けてきた。もちろん、それによって良い面も多々ある。男女平等、福祉の充実、義務教育の普及、公正な選挙制度の確立、法制度の拡充、インフラの整備、自由な経済競争・・・

 国民は近代人となり、西洋人のような暮らしをするようになる。平日は会社で働き、休日は家族と街に出て買物をし、アメリカ映画を見る。その反面、伝統は廃れ、人口は都市に集中し、農村は過疎化し、貧富の差は拡大する。国の資源は欧米に奪われ、街の隅々にまでグローバル企業が浸透し、国民が必死に働いても、利益のほとんどがグローバル企業に吸い取られる。

 中東の国々は、こうして新しい分裂を内部に抱えることになる。もともと存在した言語、宗教、民族の分裂に加えて、近代化VS伝統派の対立が生じるのだ。近代化を望む人からすれば、イスラムの伝統は足枷に見える。モハンマド・パフラヴィーが女性のヒジャブを禁じたのは、女性解放のためというより、それが自国の後進性に見えたからだ。つまりスイス育ちの彼にとって、古臭いイランはおそらく恥ずかしかったのだろう。

 こうした王様に対して、伝統派の人々は苛立った。彼らからすればフランス語と英語を流暢に喋り、欧米人とばかり仲良くする王様は、伝統を軽視しているように見えた。シャーに対する反感が渦巻くイランの中で、パフラヴィー王は統治のやり方をアメリカに頼った。軍隊だけでなく、各省庁にアメリカから顧問を招き、首都のテヘランを中心として、何万人ものアメリカ人が駐留した。

 こうなると、イランの街は大量の米兵を抱える沖縄に似てくる。街はアメリカ人向けの店とサービスを用意するようになる。飲み屋、ディスコ、アメリカ映画、夜の歓楽街。レストランのメニューは英語を表記するようになる。アメリカに影響を受けた地元の若者が増え、女たちはアメリカ人とデートをし、結婚しようと思うようになる。

 アメリカ人を好きになるイラン人が増えるとともに、アメリカ人を嫌うイラン人も増える。溝は深まるが、不満の流出に対しては、パフラヴィー王はサヴァクで対応した。つまり、政権に反対するイラン人に対して、サヴァクによる拷問と虐殺で対処し、情報統制をすることで反対意見を封じたのである。

 ホメイニーはそうした反対勢力の象徴と見なされたため、1964年に政府から国外追放処分を受けた。彼はトルコに逃げた後、イラクナジャフに移住し、そこで弟子の育成をしながら地味に暮らすこととなった。そのため政府側から見れば、毒の芽は摘み取られたように見えたが、実はこの時期にホメイニーがナジャフで人材を育成し、革命思想を醸成させたことが、後の大逆転への礎となっていた。ホメイニーは自分自身の革命思想を深めたと同時に、側近の成長も促したのである。

 歴史に「もし」はないが、あえて「もし」を言うなら、もしパフラヴィー王が国家のアメリカナイズに励まなかったら、対立も激化しなかったかもしれない。そうなれば、ホメイニーは宗教界のカリスマで終わっていたかもしれない。しかし、「近代化VS伝統」という対立の中で、ホメイニーは単なる宗教界のカリスマという枠ではおさまらなくなっていった。

 対立の中でホメイニーは宗教界の枠を出るほどに成長し、人々の期待も増幅していった。この大きな渦の中で、ホメイニーは政教分離ではなく、政教一致の宗教国家を目指すようになる。単なる宗教指導者ではなく、国家の統治も行なう宗教指導者、すなわち国民の指導者となる道を模索するようになったのだ。それは民主主義でもなければ王制でもなく、イミテーション民主主義でもなければイスラム社会主義でもない。イスラム法学者によって統治される国家、すなわちイラン・イスラム共和国である。

 

3.貧富の格差とカセットテープ

 パフラヴィー王の統治は近代化と伝統の対立を深め、石油はメジャーに握られ、アメリカの言いなりになって軍備を購入し続けたため、防衛費は増大した。国民は西洋化を謳歌しながらも言論の自由がなく、常にサヴァクに監視され、反対すれば拷問され、虐殺された。貧富の差は拡大し、人口は農村から都市に流入した。農村は過疎化し、都市は過剰になった。

 それでも経済がそれなりに安定していれば、政権が崩壊する予兆はなかった。反発勢力が一枚岩から程遠かったからである。反発勢力にはソ連から支援を受けたイラン共産党(トゥーデ党)、イスラム社会主義のムジャヒディン・ハルク、モサデク支持者の残党である国民戦線など、様々な勢力があったが、彼らが一つにまとまることはなく、むしろ敵対していた。いつの世も、与党を批判する野党勢力はバラバラなのである。

 そのため、不安定ながらも安定していたパフラヴィー統治であったが、対岸で火事が起きた。1973年、第四次中東戦争が勃発したのである。イランはこれに参戦しなかったが、エジプトやシリアを中心とするアラブ諸国が、イスラエルと戦争になった。これによって中東の原油が高騰、第一次オイルショックとなった。

 

【日本のエネルギー、150年の歴史④】2度のオイルショックを経て、エネルギー政策の見直しが進む

https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history4shouwa2.html

 

 これにより、原油価格は世界的に高騰した。それに伴いイランのオイル業界は潤ったが、その利益は欧米石油メジャーおよびそれに付随するイランの王族、貴族、富裕層に流れただけだった。一般国民は石油と無関係なため収入が増えず、原油価格の高騰に伴うインフレによって生活が苦しくなった。

 しかし、政権はオイルマネーで潤った政府財源をもとに、インフラ構築をすすめようとした。もちろんその内容はアメリカというコンサルタントの言いなりになって行うものであり、すなわち原発の建設、高速道路の整備、地下鉄網の構築である。しかしそうした工事をいくらすすめても、関連企業や利権団体、役人や政治家が潤うだけで、一般市民の生活が向上するわけではなかった。この時、もしパフラヴィー政権が物価上昇に苦しむ国民に対して、一人100万円を配っていたら、イラン革命は起こらなかったかもしれない。

 こうした中、国外にいたホメイニーはイラン国民に対して、パフラヴィー朝の打倒とイスラム国家の樹立を訴え続けていた。1964年にイランを出てから十年以上、ホメイニーは説教を続けていたのである。もちろん、ホメイニーはイランに入ることができず、イラン国内で本を出版することもできなければ、テレビに出ることもできない。そのため彼の声はカセットテープに吹き込まれ、サヴァクに見つからないように市民の間でダビングされた。

 複製されたカセットは、モスクで人から人へと渡された。そのカセットにはパフラヴィー王朝の打倒とイスラム国家の樹立、反米思想が吹き込まれており、それが聖戦(ジハード)であることが謳われていた。つまり、政府に抵抗して死んでもアッラーに祝福されるということである。

 

イラン・イスラーム革命とは何だったのか 末近浩太(立命館大学国際関係学部教授)

https://news.yahoo.co.jp/byline/suechikakota/20160303-00054989/

 

 オイルショックの下、貧富の差が拡大し、市民の政府に対する不満は増大した。しかし、パフラヴィー朝は不安定ながらも安定しているように見えた。野党はバラバラであり、上流階級は潤っていた。ホメイニーのカセットテープは市中に流通していたが、それはイランの地下水脈で静かに進行していたことであり、政権を転覆させるほどの目立った効果はないように見えた。こうした状況下で、エッテラーアートというイランで最も長い歴史を持つ新聞に、「ホメイニーは共産主義者だ」という記事が載った。1978年1月7日の記事である。

 これだけを見るならば特に変わったことはない。当時のイランではよくある風景である。政府の言いなりになって記事を書く保守系の新聞が、国外追放された反逆者を中傷する記事を載せたというだけのことである。それゆえ、これが発火点となって革命へと結びつくと考えた政府関係者は、当時おそらくいなかったであろう。しかし、事態は予想に反して燃え上がり、ここから一年後の1979年1月、パフラヴィー王は国外へ逃げることになる。

第五十六回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(9)

1.第三の男

 イランの近現代史は、二人のモハンマドを軸として展開した。一人はモハンマド・レザー・パフラヴィーであり、もう一人はモハンマド・モサデクであった。二人の「モハンマド」は対照的であり、一方は王様、もう一方は民主主義者であった。そして片方は欧米に従属したが、もう片方は徹底的に独立を志向した。

 対照的な二人であったが、イランにはこの両者を嫌う第三の男いた。それがルッホーラー・ムサヴィ(Rūhollāh Musavi)であり、後にイランの頂点に立ち、国民から「ホメイニー師」として崇められる男である。ムサヴィ(Musavi)という姓はイランではよくある姓であったので、彼は後にホメイニー(Khomeinī)と名乗るようになる。ホメイニーとは「ホメイン出身の者」という意味であり、ホメインとはイラン中部の人口1万人程度の村である。

 

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Rūhollāh Musavi Khomeini, 1938

イラン中部の意外な名所マルキャズィ州ホメインとマハッラート

https://sophia-net.com/2017/01/30/post-3053/

 

 イスラム法学者の息子として生まれたルッホーラーだったが、父親は幼い頃に亡くなっている。その父親の跡を追うように、彼もシーア派の聖地でイスラム法学を学び、アーヤトッラー(Āyatollāh)の称号を得た。アーヤトッラー(Āyatollāh)とは最高位の聖職者の称号であり、「アッラーの徴(しるし)」という意味である。

 こうしてイスラム教指導者として成長していった彼は、布教活動とともに政治家を批判するようになった。彼は生涯質素な暮らしを貫き、イスラムの戒律に殉ずることを旨としたので、自由と近代化、西洋化を推進しようとする政治家には同調できなかったのだ。

 彼の目からすると、二人のモハンマドはペルシアの男には見えなかった。二人のモハンマドはヨーロッパで生まれ育ち、ヨーロッパで教育を受け、自分の母国語がフランス語だかペルシア語だかわからんような人間であるように、ホメイニーには見えた。そういう政治家たちが、西洋の高価なスーツに身を包み、フランス語を流暢に話し、国民を西洋人にカスタマイズしようとしているように見えたのだ。

 彼らに国の舵取りを任せれば、イランの伝統と宗教は消失し、イラン人の顔をした西洋人しかいなくなってしまう。イスラム原理主義者や民族派の人達は、イランの急速な近代化に危機感を抱いていた。女性はヒジャブ(ヘジャブ hijab)をつけなくなり、人々はモスクに行かなくなり、街にはアメリカ文化が浸透し、大人は自由競争の中で金儲けに走るようになる。

 保守層が抱く危機感の中で、カリスマ性のあるホメイニーに対する期待はますます高まっていった。イランが近代化へ向かって行けば行くほど、それを歓迎する声も高まったが、同時にそれに反発する力も勢いを増していった。この対立はパフラヴィー王政での「白色革命」(第四十九回ブログ参照)の時に一気に高まった。

 日本の近代化は明治維新とともにはじまったが、当時の日本には国民的な近代化への衝動があり、欧米列強に対する強い危機感があった。この危機感が日本の近代化を強力に後押しした。しかし、この時のイランは石油を欧米に握られ、王府はアメリカの言いなりであった。そのため国民から見れば、近代化は上からの強制であるように見えた。もちろん、近代化を歓迎する国民もいたが、宗教原理派や民族主義者からすると、CIA主導の近代化は納得できないものであった。

 そうした反抗勢力の中心にいた人物がホメイニーであった。ホメイン村出身のルッホーラーは、政府がCIAと結託して行う近代化の波の中で、抵抗勢力の期待を背負う人物となっていった。こうして西洋式のスーツを着ず、僧服に身を包み、イスラム法学と清貧を貫いたルッホーラー・ムサヴィは、「ホメイニー師」と呼ばれる国民的カリスマへと成長していった。

 

2.イスラム社会主義

 中東と言うと、日本人はイスラム教の根強い風土を思い浮かべるかもしれない。広大な砂漠を歩くラクダ、チャドルにより全身を覆った女性、イスラム原理主義やモスクでの礼拝などが、日本人の抱く中東の一般的なイメージであろう。

 しかし第二次世界大戦後に中東を席巻した波は近代化の波であり、中でもその中心的な役割を演じたものがイスラム社会主義であった。それゆえ、イスラム社会主義を理解することが、中東の近現代史を理解するうえでも、あるいは現代の中東情勢を理解するうえでも必要である。ここで、簡単にイスラム社会主義について述べておこう。

 もちろん、イスラム社会主義と言っても、その内容は地域や政党により異なっており、一枚岩ではない。ただ、根本的には富を平等に配分することを理念としており、近代化を目的とすることも各派において共通している。一見、イスラム教を基盤とする中東の人達と、宗教を否定するマルクス主義とでは矛盾するようであるが、神の下での平等を信条とするイスラムと、人民の平等を旨とする社会主義は、イスラム社会主義者からすれば両立可能なものなのだ。

 このイスラム社会主義が二次大戦後の中東で席巻したため、現在においても中東の多くの国でイスラム社会主義の政党が力を持っている。例えば、内戦で混乱している現在のシリアの大統領はバシャール・アル・アサド(Bashar al-Assad)であるが、彼の所属政党はバアス党である。

 

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シリア アサド大統領

 バシャール・アル・アサドはもともとダマスカス大学医学部を卒業した医師であり、ロンドンで眼科医をしていた近代人である。妻はロンドン大学卒業後JPモルガンで投資の業務をしていたキャリアウーマンであった。アル・アサドは当初、政治家になるつもりはなく、ロンドンで医師を続けるつもりであったが、父の跡継ぎと目されていた兄が突然交通事故で亡くなったために、やむなくシリアに帰り、政治家となったのであった。

 彼のような中東の近代人が好む思想がイスラム社会主義であり、バアス党はその中でも力のある社会主義政党である。バアス党はシリアだけでなくイラク、ヨルダン、イエメンなどでも力を持ち、パレスチナバーレーンモーリタニアスーダンにおいても拠点を持っている。イラクサッダーム・フセイン(Saddam Hussein)も、バアス党所属であった。

 

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サダム・フセインとシャー・パフラヴィー(1975年)

 エジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)の政党もアラブ社会主義連合であり、カダフィ大佐(Muammar Gaddafi)が統治していた時代のリビアの正式名称は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国であった。また、イランで一時期強い力を持ち、現在は拠点をアルバニアに置いているムジャヒディン・ハルク(第四十六回ブログ参照)もイスラム社会主義の政党である。このように、第二次世界大戦後の中東ではイスラム社会主義が席巻したわけだが、彼らに資金を提供をしたのがCIAであった。

 

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エジプトのナセル大統領とソ連フルシチョフ

 ナセルがエジプトで政権を取るために力を貸したのがCIAであり、共産党と手を組もうとしたイラクのカシム政権を打倒するために、イラクのバアス党に資金援助をしたのもCIAである。CIAの援助により、イラクでバアス党が政権を奪取した時、党のナンバー2がサッダーム・フセインであった。彼は後にイラクの大統領となる。

 

3.近代的イスラムとそれに反発する原理主義

 自由主義陣営のCIAが中東の社会主義者たちに資金援助をするというのは、矛盾しているように見えるかもしれない。確かに、当時ソ連と対立していたアメリカが社会主義者たちの後ろ盾になるというのはイデオロギー的に矛盾しているように見える。しかしそれは、メディアが煽るイデオロギー対立を我々が信じすぎているからかもしれない。イデオロギーという見地よりも、植民地支配という見地を優先すれば、アメリカの優先順位は以下のようになるはずだ。これは第五十一回ブログで説明したことであるが、もう一度列挙しておこう。

 

宗主国にとって都合のいい植民地の政治家

宗主国の言いなりになる民主主義者

宗主国の言いなりになる独裁者

③独立を志向する独裁者

④独立を志向する民主主義者

 

 CIAにとって理想的なのは、宗主国の言いなりになる民主主義者であり、その典型例が日本の政治家である。植民地がイミテーション民主主義によって治められるなら、CIAとしても理想的だ。しかし、近代化が遅れ、教育水準が低く、西洋化が進んでいない発展途上国でこれを実行しようとしても難しい。イミテーション民主主義というプランを実行するためには、それなりに高い「民度」が必要なのだ。

 「おとなしく、騙されやすく、高性能」という理想的な国民は、そう簡単に見つかるものではない。となると、宗主国としては②でも満足する他はない。まずは②を実現し、徐々に①に近づけていくという方策が現実的である。

 また、中東の指導者としても、イスラム社会主義という方便は有用である。アッラーのもとでの平等を実現するために社会主義を政治的イデオロギーとすることは、理想的な平等社会の実現までは民主主義を棚上げし、社会主義の代表者が独裁者となれることを意味する。それゆえ、ナセル、カダフィフセイン、アサドといった自称社会主義者たちは皆独裁者である。こうして、イスラム社会主義の名のもとで②が実現される。

 つまり宗主国からすれば、イランのモハンマド・パフラヴィーのような王様であろうが、自称社会主義者の独裁者であろうが、忠誠を誓うならそれらは皆②である。イデオロギーはどうでもいい。②が植民地の資源を白人に横流しするなら、宗主国が文句を言うことはない。もちろん、将来的には日本のような民主主義国家(イミテーション民主主義国家)になって欲しいが、当面は社会主義であろうが王制であろうが独裁であろうが、何でもいいのである。

 問題は、②が③に変わってゆくことである。CIAに援助され、教育を受けた政治家が無能な操り人形なら、何の問題も起きない。しかし植民地の政治家が、CIAの援助という栄養の中でみるみるうちに成長し、最初はまったく考えなかった「独立」を志向し始めると、宗主国とすれば厄介なことになる。近代化や経済成長は大いに結構だが、「独立」は駄目だ。それ以外の木の実は好きなように食べて構わないが、「独立」は禁断の木の実なのだ。

 CIAと協力関係にあったカダフィ独裁政権だが、リビアの資産を白人に横流しするのではなく、国民の生活向上のために使うようになった時、宗主国としては要注意となる。カポーの目的が横流しではなく自国の繁栄になった時、カポーは忠犬ではなく反逆者と見なされるようになる。

 

米CIAがカダフィ政権と協力関係、リビアで文書見つかる

https://www.afpbb.com/articles/-/2824219

 

カダフィ下のアフリカ最裕福な民主主義から、アメリカ介入後、テロリストの温床と化したリビア

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-c9d6.html

 

 カダフィフセインが駆除されたのは、彼らが独裁者だったからではない。アメリカの植民地で独裁政権を政治体制とする国はいくらでもある。問題は独裁か否かではなく、資産の横流しをするか否かである。植民地は植民地を富ませるためにあるのではない。宗主国のためにある。だから、植民地が植民地を優先するなら、それは反乱である。ただ、政府はそのような発表はできず、大手メディアもそういう報道はできないので、独裁政権を打倒するための正義の戦争だと彼らは国民に伝えるのである。

 

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Henry Kissinger and Mohammad Rezā Pahlavi

 中東をイスラム社会主義が席巻した時、イランでは社会主義は必要ではなかった。既にモサデクという④は打倒され、パフラヴィー王という②が確立されていたからである。CIAが社会主義者に金を渡して教育し、政権を奪わせるという芸当は、イランでは必要なかったのである。

 パフラヴィー王はル・ロゼ時代にCIAのリチャード・ヘルムズと御学友であり(第四十九回ブログ参照)、キッシンジャーとの信頼関係も厚かった。当時のイランは、CIAの指導のもとに作られた秘密警察「サヴァク(SAVAK)」による支配がうまく機能していた。サヴァクの諜報活動により、反政府デモなどの活動が事前に判明し、群衆が道に溢れる前に活動家は逮捕されたからである。

 逮捕された反逆者は残虐に拷問され、殺された。こうした王制に対する国民の不満の声は高まり、ついに1963年、ホメイニーはパフラヴィー王政に対する全国的な抵抗運動を国民に呼びかけた。当然、これにより彼は逮捕されたが、この時は釈放された。しかし、その後も彼は政府批判をやめなかったため、1964年、パフラヴィー王から国外追放処分を受けることとなった。

 抵抗の象徴であるホメイニーは、トルコに逃げ、その後イラクナジャフに定住し、目立たなくなった。政権はこの時、完全勝利をおさめたかのように見えた。しかし、実際にはこれが1979年のイラン革命の種となった。イラン国内ではサヴァクの監視のなか行動の制限があったホメイニーだが、ナジャフでは地味だが制限のない暮らしの中で、力をためることができたのである。

第五十五回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(8)

1.無名の海賊から世界的に有名な海賊へ

 日章丸は1953年4月8日、夜陰に隠れてホルムズ海峡を通過し、4月10日、ついにアーバーダーンの港に到着した。イギリス海軍に見つからないよう細心の注意をはらい航行した日章丸であったが、アーバーダーン港に到着した時にはマスコミに知られてしまった。AFPとロイターが報道し、日章丸がイランで石油を積むことは世界的に知られる事実となってしまった。

 しかしここで事態を誤魔化すのではなく、出光興産は4月11日、堂々と記者会見を開き、イランのモサデク政権と石油取引をし、アーバーダーンから日本に石油を持ち帰ることを発表した。

 

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出光佐三 記者会見 1953年4月11日

 

 出光としては、自分の行動が世界的に知られることは計算内のことであったのだろう。石油業界から「海賊」と揶揄され、業界の裏街道を歩いてきた出光は、報道により世界的に有名な石油会社となった。その行動には賛否両論あったが、イギリスとしても無名の海賊が相手なら大砲で撃沈できるが、有名になった出光に対してはできなくなった。撃沈よりも、拿捕の方が遥かに難しい。

 ただ、日章丸としても往路より帰路の方が難しくなった。往路では無名のタンカーに過ぎなかったが、帰路では有名なIDEMITSUのタンカーとして、イギリス海軍の探査の目の中で航海する他なくなったからだ。しかし、出光のタンカーにはそれまでの「海賊」としての経験があった。石油メジャーの傘下として安全な航路のみを通ってきたタンカーと、メキシコやヴェネズエラ、パナマ運河などの危険な海域を通ってきたタンカーとでは経験値が違う。

 会社としても往路と帰路は別物と考え、作戦を練ってきた。日章丸は4月16日、夜陰に隠れてホルムズ海峡を通過すると、大きく迂回する航路を取った。インドネシアのスンダ海峡を通過し、シンガポールに基地を持つ英国海軍の警戒を考慮し、マラッカ海峡を避け、水深が浅く航行が危険なジャワ海を通った。

 その後、4月29日にガスパル海峡を通過し、30日には南シナ海に入った。ここで日章丸は無線封鎖を解除し、出光本社と連絡を取り、無事に航行していることを報告した。同日、イギリス政府はロンドンの駐英大使、松本俊一を呼び出し、厳重抗議をした。この時、当然ながら日本の外務省は出光からの報告により日章丸の航行について知っていた。しかし大使および外務省は「知らなかった」と嘘を言い、「民間の取引に国は介入できない」と弁明した。

 5月4日、日章丸はフィリピン北のバシー海峡を通過し、7日には日本の領海に入った。これを確認したイギリス政府は、同日、アングロ・イラニアン社を申請人として仮処分申請を東京地裁に提出した。つまり日章丸が積載している石油は出光のものではなく、アングロ・イラニアン社に法的な所有権があるという主張である。

 その後1953年5月9日、ガソリンと軽油、約2万2千リットルを積んだ日章丸は、ついに川崎港へ帰港した。これは大きなニュースとなったが、同日、東京地裁にて第一回口頭弁論が開かれることとなる。

 

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日章丸 朝日新聞 1953年

 

2.一瞬の脱却

 出光佐三の主張は記者会見においても裁判所においても同じであった。一つは、イランの石油はイランのものであり、モサデク政権がイランの石油を国有化していることは法的に見て正当なこと。もう一つは、その政権との直接交渉で石油を得た出光の所有権は、国際法上何ら違法性がないことである。佐三は次のように法廷で述べた。

 

「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として府仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓い致します。」

 

 実はこの法廷闘争の裏で、出光は二回目の航行を予定していた。9日に川崎港に到着したばかりの日章丸は、急いで積み荷を降ろし、5月14日、イランに向けて再度出航したのである。この後、5月16日に第二回口頭弁論が東京地裁で開かれ、27日、東京地裁はアングロ・イラニアン社の仮処分申請を却下した。

 裁判長は、「イランとアングロ・イラニアン社の契約は、私的な契約であり、イランの民法に従うべきである。イランによる石油国有化は、正当である。」と断じた。これはモサデク政権と出光を法的に正しいと認める判断であった。当然、アングロ・イラニアン社はこれを不服とし、上訴した。

 6月に入ってからイラン政府が会見を開き、出光と結んだ契約を見直し、価格を大幅に下げて出光に石油を提供することを発表。この中で6月7日、日章丸は再びアーバーダーン港に到着した。数千人のイランの民衆が歓迎し、出迎えたモサデクは日章丸船員たちと握手をし、こう述べたそうである。

 

「あなた方日本人の勇気と偉大さを、イラン人は永遠におぼえているだろう。」

 

 この時、一瞬だがイランの反骨と日本の反骨が結合し、民族の自決と植民地支配からの解放が達成された。「金の奴隷になるな」と訴え続けた経営者が、独立の闘士と結びつき、「人間は金で動く」と信じて疑わない金融資本の壁に風穴をあけたのだ。

 しかし、この2カ月後、アジャックス作戦の遂行により、モサデク政権は打倒され、イランはアメリカの植民地となる。これを受けて、アングロ・イラニアン社は東京地裁に上訴していた事件を、1954年10月29日に取り下げた。同年8月に、アングロ・イラニアン社は国際的なコンソーシアム(Consortium 共同事業体)の配下に置かれることが決定したからだ。

 同社の株式のうち40%が5つのアメリカ系メジャーに渡され、残りについては、英国石油が40%、ロイヤル・ダッチ・シェルが14%、フランス石油が6%という配分となった。モサデクはこの時獄中にいた。これを牢屋の中で知ったのかどうかはわからない。

 

3.反骨を忘れない

 出光とイランとの石油取引も1956年で終了することとなる。モサデクがいなくなった後のイランとの取引は、欧米石油メジャーとの取引と等しく、反骨と反骨との共鳴ではなくなったからである。

 出光は佐三の跡を弟の計助が継ぎ、代々出光家から社長が出たが、その後は株式公開し、出光の血筋とは無関係の社長により経営がなされている。その後、昭和シェルと経営統合した。貝殻マークのShell(シェル)はロイヤル・ダッチ・シェルのマークであり、要はロスチャイルド系の石油メジャーの印である。

 

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世界を操る支配者たち(1)〜ロスチャイルド家

http://www.kanekashi.com/blog/2012/05/001861.html

 

「タイムカードなし」

「出勤簿なし」

「解雇なし」

「定年なし」

 

 という「四なし」をモットーとした出光は、現在存在しない。現在の出光は、「海賊」と呼ばれた当時とは違い、ある意味普通の大企業である。モサデクが首相だった時のイランも、現在では存在しない。では、彼らがやったことは無駄な足掻きに過ぎなかったのであろうか。最後は金の力が勝ち、奴隷は結局奴隷にしか過ぎないのに、無駄な反抗をしたのであろうか。歴史の機械的な時系列だけを見るならば、弱者の抵抗は一時的に成功しても、強者によって握り潰されるものに見える。

 しかし、バラの花が、「どうせ最後は散るのだから」という諦観から咲くことを止めてしまえば、それはバラの花ではない。結果がどうなろうが、バラの花は自己が自己であるという自己実現を一瞬も止めることはない。モサデクや佐三もそうだったのかもしれない。自分が自分を引退することはできないし、もし反骨の精神が日々の食を得るために反骨を捨てるなら、それは生きながら死んでしまうことと同じなのだろう。

 イランの人々が日章丸事件を忘れないというのは、困窮していた時に石油を買ってくれたという金の問題よりも、当時のイランの反骨精神に共鳴した反骨の日本人がいたという事実であろう。単に石油を買っただけでは、そこまでの強い記憶にはならない。

 ただ、今の日本人にとって、日章丸事件の記憶は薄れつつある。むしろ、イラン人の方がよく覚えていると言える。イラン生まれのナスリーン・アジミ(Nassrine Azimi)さんは、「今こそ日本人は日章丸事件を思い出すべきだ」と言うが、今の日本人が反骨の日本精神を思い出すことは、かなり難しいことなのかもしれない。

 

「日本人が日章丸事件の意義を思い出す時は今」ヘラルド・トリビューン

http://trailblazing.hatenablog.com/entry/20100218/1266484582

 

学長ノート - 立命館アジア太平洋大学

https://www.apu.ac.jp/home/notes/article/?storyid=50