戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十八回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(18)

1.大使館という宝物庫

 前回のブログではアメリカ人がイラン人を嫌う理由、および「アルゴ」についての二つの見方について考察した。そこでは「大使館」についての見方がキーポイントになると述べた。「大使館」という言葉はgoo国語辞書によると以下のような意味であるそうだ。

 

たいし‐かん〔‐クワン〕【大使館】 の解説

特命全権大使が駐在国において公務を執行する公館。国際法上、本国の領地と同一に見なされ、不可侵権が認められる。

 

 辞書の言葉は表の意味である。これ自体は間違っていない。しかしこれは意味の半分である。半分は植民地経営に関する意味である。大使館は植民地に存在する宗主国として、宗主国の領地と同一と見なされる。つまり、植民地経営の最前線という意味を持つ。

 現地人と友好関係を築くことだけが公務ではない。現地のマスコミや政官財と結託しながら、独立運動を潰すことも彼らの公務である。それはある意味「友好」よりも遥かに大事な仕事である。大使の任命は本国の政権が行う。本国の政権の背後には企業家たちがいる。つまり本国の企業に利益を流すことが大使館には期待されている。搾取のパイプを太くすることが期待されているのだ。

 例えばイランの石油を奪い、アメリカの石油メジャーを潤す。あるいは日本の郵便貯金を奪い、アメリカの金融会社を潤す。植民地の資源(資産)を奪って宗主国に流す。この重要な仕事のために、大使館職員は植民地と宗主国の繋ぎ役として大いに頑張ってもらわなければならない。期待されて雇われている彼らは、それなりに高い給料を貰っている。

 

年収1000万の求人発見。米国大使館<駐大阪・神戸米国総領事館> 広報・報道担当補佐

http://tensyokupickup.hatenadiary.jp/entry/2017/08/05/200438

 

 ただ、搾取の仕事は簡単ではない。搾取をすれば反発を受けるに決まっている。必ず反対運動が起こる。それゆえ搾取だけでは仕事の半分に過ぎない。もう半分は反発を潰すことである。つまり、抗議する人民たちをカポー達と協力しながら潰すことが大使館の仕事である。

 映画「アルゴ」は、若者たちを中心にしたデモ隊にアメリカ大使館が包囲され、今にも要塞が崩れ落ちる寸前の緊迫した場面から始まる。大使館職員たちは、デモ隊が柵を乗り越えて中に入ってくることを想定し、緊張する。この緊迫した状況下で、彼らは急いで書類やパソコンのデータを破棄しようとするが、間に合いそうもない。

 あの書類には何が書かれているのか。ハードディスクにためこまれた内容は何か。答えを簡単に言えば、植民地経営のための情報である。売国奴のリスト。独立運動家のリスト。誰が力を持っているのか。誰を潰せばいいのか。愛国者売国奴に寝返らせる方法。サヴァクへの密告リスト。デモ隊のリーダーに冤罪をかぶせて逮捕する方法。国民をコントロールするために現地マスコミに書かせる内容。プロパガンダの具体的内容や方法。

 これらは、イラン人たちには絶対知られたくない内容である。ということは、デモ隊からすれば無傷で確保したいデータである。デモ隊が大使館内になだれ込んだのは、単に感情的になって押し入ったのではない。あれらのデータが欲しいという理由があった。

 その意味では、大使館は宝物庫である。支配側にとっても被支配側にとっても、そこに眠っているデータは宝物である。トップ官僚でも知らないデータも含まれている。だから「外交関係に関するウィーン条約22条の2」(前回のブログ参照)は、大使館が襲われた場合、現地警察が死守しなければならないと定めている。これは宝物庫を守るための国際ルールである。

 

2.イラン人から見た大使館人質事件

 ではなぜ、あの時、イランのデモ隊は宝物を暴力的に奪おうと思ったのか。1979年11月4日以前にも、宝物は大使館にあった。なぜ11月4日以前には乗り込まず、11月4日に決行したのか。そこには二つの事件が大きな要因としてかかわっている。一つはパフラヴィーのアメリカ入国であり、もう一つはバザルガンとブレジンスキーの握手である。

 私は第六十二回ブログにおいて、パフラヴィー王の癌治療が後にイランがイスラム国家化することの主たる要因の一つとなると書いた。また第六十三回ブログにおいて、王は癌治療のために1979年10月22日にアメリカに入り、これが後のアメリカ大使館人質事件につながると書いた。このことについて説明しなければならない。

 イランの元王モハンマド・パフラヴィーは、イランを出てからエジプト、モロッコバハマ、メキシコと転々としていたが、1979年10月22日に癌治療のためにアメリカに入った。アメリカで彼を迎えたのはデイヴィット・ロックフェラー(David Rockefeller 1915-2017)であった。これがイラン国民に危機感を起こさせた。元王とロックフェラーが組んで、イランの独立を潰そうとしているのではないか。イラン国民はそう疑念を抱いた。

 これまで王とアメリカに散々騙されてきたイラン国民からすると、パフラヴィーが癌治療を理由にしてアメリカに入国したというニュースは嘘に見えた。実際には、カーター大統領を中心とするホワイトハウスは、パフラヴィーという厄介者が入国することを嫌がったそうである。面倒なことを避けるために、パフラヴィー入国を拒否すべきとの意見が、政権内でも多かったそうだ。

 しかし、ロックフェラーは長年パフラヴィーを舎弟として可愛がってきた。舎弟も兄貴のために、自国の石油を大量に流すために頑張ってきた。兄貴としてはそんな弟を拒否するわけにはいかない。仮にここで兄貴が弟を冷たく拒絶すれば、世界中の発展途上国の指導者が反発しかねない。利用するだけ利用しておいて、最後は癌治療も拒否するのかと。

 パフラヴィーを捨てることは、ロックフェラーの世界経営に悪影響を及ぼす。そこでデイヴィッドはホワイトハウスに要求した。パフラヴィー入国を許可しろと。カーター政権もデイヴィッドに逆らうわけにはいかない。渋々パフラヴィーの入国を承諾した。

 事の経緯を見ると、パフラヴィーの入国目的は本当に癌治療であって、イランに返り咲くことは考えていなかったのかもしれない。しかしそれは歴史の経過によって言えることであって、当時のイラン国民がそう思えなかったとしても致し方ない。アメリカとパフラヴィーが結託することでモサデク政権が潰されたという経験は、イラン国民からすれば生々しい傷として残っていたからだ。

 この後すぐに事件が起きた。アルジェリア独立戦争記念式典が1979年11月1日に行われた。そこに招かれたイランのバザルガン首相が、アメリカのブレジンスキー大統領補佐官と会談した。二人が握手をする写真が、イランの新聞に掲載された。これでイランの血気盛んな若者たちは我慢ならなくなった。

 バザルガンとしては、早急にアメリカとの関係を回復することが目的だった。イランはホメイニーの下で独立国として船出したとは言っても、イラン軍はアメリカ式に出来上がっており、装備もアメリカ製であった。石油施設やインフラ設備もアメリカ製であり、部品はアメリカから買わないことにはどうにもならない。

 だから、アメリカとの関係が停止している状態は、イラン経済とインフラメンテナンスの面も停止していることを意味していた。バザルガンは首相として、そうした状況を打破するためにアメリカとの関係構築を急いだのである。しかし、政権内の宗教指導者グループ(ホメイニー派)はこれに反発し、愛国派の国民もこれに反発した。

 アメリカはパフラヴィーを入国させた。その裏にはロックフェラーがいる。バザルガンはブレジンスキーと会った。アメリカはバザルガンを抱き込んで、ホメイニー政権を潰そうとしている。潰した後に、パフラヴィー王とバザルガン首相による政権をつくろうとしている。それは立憲民主制の顔したアメリカの傀儡政権だ。

 イラン国民はこのように想定し、危機感を抱いた。もちろん、当時のアメリカはそんなことは企んでいなかったのかもしれない。しかしイラン国民はそう思ってしまったのだ。危機感を抱いたデモ隊は「独立潰し」を潰すために、テヘランアメリカ大使館に乗り込んだ。敵の前線基地を奪取し、そこに保管されているデータもいただく。こうしてアメリカ大使館襲撃は敢行された。

 

3.二つの事件がホメイニー政権の地盤を固くした

 ズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski 1928-2017)という名前を聞いても、日本人のほとんどはよくわからないだろう。

 

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Jimmy Carter and Zbigniew Brzezinski

 彼は国際的に有名な人物ではない。しかし極めて重要な人物である。なぜなら彼はCFR (Council on Foreign Relations外交問題評議会)の大物だからである。政治学者であり、コロンビア大学教授、CSIS顧問、ジョンズ・ホプキンス大学教授を歴任し、オバマ政権時代には外交顧問を務めた。

 このブログの読者なら、彼の経歴を見ればピンとくるだろう。アメリカの三大軍事大学はコロンビア、ジョンズ・ホプキンス、ジョージタウンである(第二十八回ブログ参照)。ブレジンスキーはそのうちの二つの大学で教授に就任しており、CSIS顧問、そしてCFRの幹部でもある。つまり、単なる象牙の塔の学者ではなく、軍事や外交、植民地支配についての専門家であり、国際戦略のプロフェッショナルである。彼についた綽名が「戦争屋」である。

 政治学者と言っても、日本人のイメージする学者とはだいぶ違う。キッシンジャー政治学者だが、かの国の一流の政治学者は、曖昧な理論や御託を並べる教養人とはまったく違う。明確な数式を出せなければ、あの国では一流の政治学者ではない。

 例えば、どの国に爆弾を落として、誰がいくら儲かるのか。その際メディアはどう操作すればいいか。アメリカ軍の一方的な暴力を国連決議で正義にもっていく方法。占領した後に現地の売国奴アメリカのカポーに仕立て上げる方法。現地が爆弾でボロボロになった場合、アメリカのどの企業がいくら儲かり、株価はいくら上がるのか。人権運動家や人道的議員や熱血ジャーナリストを飴と鞭で黙らせる方法。等々・・・

 そういった「実践的」な手法について精通している人物があの国では一流の政治学者なのであり、いくら儲かるのかわからない曖昧な理論を延々と喋り続ける無意味な学者はアメリカでは一流になれない。アメリカから遠く離れたどっかの国の人々を何人殺せばいくら儲かるという明確は計算式を、高度な頭脳と緻密な検証によって明示できる人物が、あの国では本物の政治学者なのである。

 

ロックフェラーに続きブレジンスキー氏も死去

https://ameblo.jp/agnes99/entry-12278487983.html

 

 パフラヴィーがアメリカでCFR会長のデイヴィット・ロックフェラーと会い、バザルガンがアルジェリアブレジンスキーと会った。バザルガンは憲法の内容でホメイニーと対立していた(第六十六回ブログ参照)。だから、ホメイニー支持者たちはバザルガンをこころよく思っていなかった。

 イランのデモ隊もバカではないので、大使館襲撃は「ウィーン条約22条の2」に反することはわかっていた。しかし、彼らは一連の事件からCFRがイランの政権を潰すために暗躍していると解釈した。イランの独立が危ない。強い危機感を抱いたデモ隊は、植民地支配の前線基地であるテヘランアメリカ大使館に突入し、職員たちを人質にとった。

 イラン政府は警察を出動させてこれを阻止すべきであった。しかしあえて放置した。これはイラン国民から賞賛された。バザルガン内閣は人質の即時解放を主張したが、ホメイニーを筆頭に宗教指導者たちが反対したので、内閣は総辞職した。イランのこうした態度に対して、西側諸国は強烈な嫌悪感を抱いた。イランは国際的に孤立した。しかし、この孤立がホメイニー政権を盤石にした。

 外に敵がいるということは、内を一体化させるということである。最初、ホメイニー政権は脆弱だった。一枚岩から程遠く、かつて戦友だった政党やクルド人などと敵対した。そのため本来は政権に入れたくなかった異分子を首相に据えた。モサデク派のリベラリストであるバザルガンを首相に据え、ホメイニー政権は船出したのである。しかしパフラヴィーがアメリカに入国し、バザルガンがブレジンスキーと握手したことで、不安感が増大した国民は右傾化した。

 これが脆弱だったホメイニー政権を強くした。アメリカを憎む国民は増え、ホメイニーの支持率は高まった。二つの事件はホメイニー政権に対する支持率上昇に貢献したのである。おかげでホメイニー政権はリベラリストたちを政権内から一掃することができた。こうした中、さらに支持率を上昇させる事件が勃発した。1980年9月、フセイン政権のイラクが突然イランに攻め込んで来たのだ。後に「イラ・イラ戦争」と呼ばれるイラン・イラク戦争の始まりである。

第六十七回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(17)

1.アメリカがイランを嫌う理由

 アメリカとイランは対立関係にある。この対立は最近はじまったものではなく、様々な要因が絡んでいる。ただ対立の歴史は平板なものではなく起伏があり、そこには象徴的な事件が存在する。対立を最も象徴する事件が、1979年11月4日に起きたアメリカ大使館人質事件である。この事件は現在の両国間の対立感情にも繋がっている。40年以上経っても尾を引いているのだ。

 第五十一回ブログで述べたとおり、欧米人は民主主義でない国は大嫌いである。これは保守もリベラルも関係なくそうである。普段は仲の悪い保守とリベラルであるが、独裁国家を嫌い、民主主義を賞賛するという点では一致団結できる。例えば中国共産党を嫌い、香港のデモを応援するという点では、彼らは一致団結できるのだ。

 ということは、イスラム革命後のイランは欧米人に嫌われるための第一要件をクリアーしているということである。ホメイニー革命後のイランは民主主義国家ではない。しかも、イスラム教国家である。欧米でイスラム教が好きだという人は極めて少数派である。イスラム教を嫌う欧米人を見つけるのは簡単だろう。しかし逆は難しい。欧米人のイスラム嫌いの性質をIslamophobiaと言う。

 

アメリカのイスラムフォビアイスラム嫌悪)には6つの「法則」がある

https://www.huffingtonpost.jp/2017/01/27/islamophobia_n_14447732.html

 

 イランはパフラヴィー朝まではイミテーションとは言え、民主主義国家であった。しかし1979年のイラン革命以後は民主主義国家ではない。さらにイスラム教国家である。これは嫌われポイントが二つ重なっているということである。

 アメリカ国民からすれば、ホメイニーは中東の狂信的な独裁者に見える。イスラム教は攻撃的なイメージがあり、爆弾テロなどの物騒なものを連想させる。ヘジャブをつけた女性は男尊女卑の象徴のように見える。

 こうした「嫌い」ポイントが重なる中、1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起きた。これによりイランは狂信的なイスラム国家であり、アメリカの敵だというイメージが、アメリカ人の中で固まった。「嫌い」から「敵」へと昇華したのである。

 ただ、大使館に抗議の人民が大挙して集まるという事態だけを見れば、どこの国でも起こることであり、イランに限られることではない。東京の韓国大使館前に日本人のデモ隊が集まることもあれば、ソウルの日本大使館前に韓国人のデモ隊が結集することもある。

 

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ソウルの日本大使館前の抗議行動 2017年2月22日

  大使館前に抗議のデモ隊が集まって声をあげること自体は、民主主義国家における国民の正当な権利であるから、それ自体は問題ない。ただ、国家は大使館を全力で守らなければならない。この場合、国家と国民は対立するが、国家が味方すべきは自国民ではなく外国大使館の方である。

 日本の警察は東京の韓国大使館を守るために日本のデモ隊と対立し、韓国警察はソウルの日本大使館を守るために韓国人デモ隊と対立する。自国の警察が自国民と対立するわけだが、大使館を守るという国際的なルールを守るためには致し方ないことである。

 このルールは、国際法である「外交関係に関するウィーン条約」の22条の2に規定されている。これに則れば、人質となったアメリカ大使館職員を守らなかったイラン政府は国際法違反である。

 

外交関係に関するウィーン条約 22条の2

接受国は、侵入又は損壊に対し使節団の公館を保護するため及び公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務を有する。

 

  イラン国民はホメイニーという狂信的な教祖を信じる危ない人たちである。彼らは戦前の日本人と同じように反米思想を教育によって叩き込まれ、アメリカに敵意を持っている。だから国際ルールを平気で破り、アメリカ大使館人質事件を起こした。イラン政府は大使館を占拠した右翼的イラン人を逮捕するどころか、むしろ愛国者として賞賛している。

 これがこの事件に対する普通のアメリカ人の解釈である。そして、彼らがイランを嫌う理由でもある。自由と民主主義を愛するアメリカ人の立場からすれば、自由も民主主義も尊重せず、さらに大使館を守るという国際ルールも尊重しない狂信的イラン人を愛する理由はない。嫌う理由は多々あれど、好きになる理由はないのである。

 

2.Islamophobia推進派の映画

 どこの国の人も同じであろうが、普通のアメリカ国民は大手メディアの報道を信じてしまう。世の中に流布するイメージを簡単に信じ、疑問を持って自分で調べることは少ない。その結果、アメリカでは「イラン=敵」というイメージが定着した。

 2012年、このイメージを推進する映画が公開された。それが「アルゴ(Argo)」である。この映画は、徹底してこのイメージに則ってつくられた映画である。つまりアメリカが正義、イランは悪として描かれている。この映画は世界的にヒットし、2013年2月24日第85回アカデミー賞にて作品賞、脚色賞、編集賞を受賞した。

 

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アルゴ 2012年公開

『アルゴ』 フィクションの力を使って最高に面白い物語を紡ぎだした、映画監督ベン・アフレック

https://cinemore.jp/jp/erudition/369/article_370_p1.html

 

 私もこの映画は見たが、普通のエンターテインメント映画としてはおもしろいし、よくできていると思う。ベン・アフレック演じるトニー・メンデスが、優れた頭脳でかわいそうな人質たちを救うという映画である。実在したCIA職員であるメンデス(Antonio Joseph "Tony" Mendez 1940-2019)はスーパーヒーローとして描かれており、大使館員を人質にとったイラン人たちは悪者である。

 イランを嫌うアメリカ人のみならず、この映画を素直に見てしまった世界中の人々は、イランに対して良くないイメージを持ったことだろう。そこに描かれているイランは狂信的なイスラム国家であり、大使館になだれ込むイランの学生たちは狂った愛国者たちである。もし、この映画の目的がイランを嫌悪する人間を世界中に増やすというものなら、かなり成功したと言えるだろう。

 世界的に賞賛され、日本でもヒットした「アルゴ」であるが、イラン人がこの映画を見たら怒りに震えるだろう。あるいはイラン人でなくてもイランの歴史を知っている人が見たら、その凄まじい偏向性に驚くだろう。この映画は、事件の背景について全く語らない。その意味ではプロパガンダ映画である。

 確かに、アメリカ大使館になだれ込み、アメリカ大使館の職員たちを人質にとったイランの若者たちは、国際ルールからすれば間違っている。彼らは犯罪者集団であり、それを取り締まらずに放置したホメイニー政権も間違っている。人質の即時解放を主張したバザルガンなどのリベラリストたちは、国際ルールからすれば正しかった。

 しかし、そうした表面的な善悪の観点からこの事件を見ても、真相はまったく理解できない。まず、前提となる「大使館」というものの意味が、どの立場から見るかによってまったく違う。この映画は、「大使館」というものの意味を善なるものとしてしか描いていない。その意味では事の真相の「半分」をあえて強調した映画なのだ。

 そうした強調により、この映画は表立ってIslamophobiaを叫ぶものではないが、スマートな形でIslamophobiaを推進する内容となっている。観客が「大使館」の裏の意味を知らないことを利用しているのだ。

 

3.「大使館」という言葉の二つの意味

 国際関係の知識に乏しい人からすれば、大使館は国際交流のための事務所、あるいはパスポートを無くした時に訪れる事務所というイメージしかないだろう。しかし、それは「大使館」という言葉の表の意味でしかない。実際の大使館はパスポートの再発行よりも重要な仕事を担っている。それが植民地支配のための前線基地としての役割である。この意味では、大使館は軍備を有しない軍事施設である。

 大使館は戦車やミサイルなどで武装していないが、軍事的な拠点である。つまり、それは事務所というよりも基地である。大使館は確かに国際関係のための事務所ではあるが、同時に諜報の前線でもある。大使館は、常に植民地を操作し、反抗的な植民地の運動家を攻撃するための準備をととのえている。

 確かに、それほど深い関係にない二国間にとっては、大使館は国際関係のための事務所に過ぎない。駐日本フィンランド大使館は、日本との友好関係のために存在する。しかし植民地経営は友好の事務処理だけでは不可能だ。日本はフィンランドの植民地ではないが、アメリカの植民地である。だから、同じ「大使館」と言っても、フィンランド大使館とアメリカ大使館では、「大使館」の意味がまったく異なる。

 フィンランド大使館は日本が独立を志向した時に邪魔する必要はない。しかし、アメリカ大使館の場合はそういった動きがあれば潰すことが仕事である。彼らは常に最前線で情報を収集する必要がある。日本のカポーたちは大使館と密に連絡を取り合い、植民地経営に貢献する。田中耕太郎裁判長がアメリカ大使に砂川事件について報告したのは、植民地統治に関する仕事の一環であった(第二十回ブログ参照)。

 大使館には植民地の独立運動を潰すという大事な仕事がある。普通の日本人は東京都港区赤坂のアメリカ大使館を見ても、あの中でそういったことをしているとは想像できないかもしれない。しかしイラン人にとっては、大使館がそういう場所であることは非常にリアリティがある。

 イラン人は大使館の恐ろしさを体験している。イラン国民がモサデク政権の下でイギリスからの独立を果たした時、その政権を潰したのはCIAであり、その前線基地となったのはテヘランアメリカ大使館であった。アジャックス作戦の司令官はCIA長官のアレン・ダレスであったが、現場監督を務めたのはアメリカ大使であったロイ・ヘンダーソンであった(第五十一回ブログ参照)。

 だから、アメリカ大使館はイラン人にとっては外交と友好の象徴ではなく、搾取と暴虐の象徴である。軍事的な拠点であり、植民地経営のための情報センターであり、スパイの巣窟である。このような「大使館」に対するイラン人の観点は、大使館についてほとんど何も知らないアメリカ人がイメージする「大使館」とは大きく異なる。

 「アルゴ」は大使館についての映画であるから、観客が「大使館」についてどのようなイメージを持っているかによって印象が全く異なる。大使館によって痛い目にあったイラン国民からすれば、この映画は茶番である。悪を正義にひっくり返したプロパガンダ映画に過ぎない。

 しかし「大使館」の裏面を知らない普通のアメリカ人、あるいは世界の多数派の人々からすれば、ヒーローが外交官を救出した映画となる。ベン・アフレック演じるCIA職員がヒーローなのである。こうした見方は、イラン人からすれば「冗談もほどほどにしてくれ」というものである。イランから石油を奪い、搾取し、支配してきたCIAがヒーローのはずがない。イラン人からすれば、「アルゴ」を見て普通に楽しむアメリカ人は無知にも程があるとなろう。両者の溝はそれほど深い。

第六十六回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(16)

1.激化した民主化運動は予想と違った結果を招く

 イラン革命の大火は、1978年1月7日の新聞記事から始まったと見ていいだろう。この時の火はまだ小さなものに過ぎなかった。しかし、エッテラーアート(Ettela'at)の記事が発端となったコム(Qom 現在はゴムGhom)のデモにおいて、神学生に死傷者が出た。その後、石油の街アーバーダーンにおいてシネマ・レックスの火災事件が起きる(第六十回ブログ参照)。

 こうした炎の連続が、大火へと発展した。レックス火災事件から1カ月経たないうちに、テヘランでは10万人規模の反政府デモが起きるようになり、9月8日には戒厳令が布かれることとなった。

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Demonstration of 8 September 1978. The placard reads, We want an Islamic government led by Imam Khomeini.

 新聞記事から約一年後の1979年1月16日、パフラヴィー王はイランを離れ、二度と祖国に戻らなかった。そして2月1日、王と入れ替わるようにホメイニーがイランの地を踏んだ。15年ぶりの帰国であった。政府との戦いの中でナショナリズムに燃えていた国民は、これを熱狂的に迎え入れた。

 こうして少数派に過ぎなかったホメイニー派が政権を取るに至った。これは一年前に起きた神学生死傷事件の時には国民のほとんどが予想していなかった結果であった。ただ、デモの熱が上がるに応じて対立が深まり、民衆と政府との間の溝が取り返しのつかないものに発展するという過程は、現在の我々も見ている風景である。

 例えば香港のデモがそうである。最初、香港のデモの焦点は犯罪容疑者の中国への引き渡しあった。デモの激化によってこの条例改正案は凍結された。しかし、香港の若者たちはその結果だけでは矛を収めることはできなかった。その後もデモの熱は増し、現在も終わりの見えないものとして民主化運動は継続中である。デモ側の多数派が望むことは一国二制度の徹底であり、独立までは求めていないが、独立を訴える勢力も少数派として存在する。

 香港の民主化運動には、NED(National Endowment for Democracy)というNGOがバックについていることは国際関係に詳しい人なら誰もが知っている事実であろう。NEDのバックにはCIAがついている。

 

香港デモの陰でうごめく「無責任な外国諜報機関」の存在に注意せよ

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66723

 

 ただ、香港の民主化運動を単純に「アメリカの自由主義VS中国の共産主義」という対立の構図だと見てしまうと誤る可能性があるようだ。というのも、デモの過激化は中国共産党が仕組んでいるという説もあるからだ。

 この説によれば、デモ内の独立派グループ、過激派グループを支援しているのは中国共産党である。彼らの目的は対立の深化による香港の形骸化である。中国共産党の手引きにより、デモ隊と機動隊との対立を激化させ、香港の都市機能を麻痺させる。これにより、観光や金融の面で国際的に高い地位にあった香港を骨抜きにする。

 2018年度の香港の一人頭名目GDPは、世界17位であった。なお、日本は26位である。

 

世界の1人当たり名目GDP 国別ランキング・推移(IMF

https://www.globalnote.jp/post-1339.html

 

 日本は全体GDPで言えば世界3位(1位アメリカ、2位中国)であるが、GDPを全体でとらえれば人口の多い国が高いに決まっている。そのため、その国の豊かさをはかる指標としては「一人当たりGDP」を見るしかないのだが、それによれば一人当たりの経済力は日本より香港の方が遥かに上である。ただ、これからは変わっていくだろう。香港の経済力は下落の一途を辿っているからだ。

 香港が形骸化すれば、隣接する都市である深圳、肇慶、仏山、江門、中山、珠海、広州、東莞などに「人・物・金」が流出する。それまで香港に集中していた富が、中国の新興都市、特に深圳に流れるのだ。そのようにして深圳の国際的地位を上げ、香港に代わる新たな国際金融都市の地位に深圳を据えようという計画を中国共産党は持っているのかもしれない。

 

中国政府に「脱香港」の動き? 深圳を「香港以上」に育てる長期計画

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/08/post-12842.php

 

 この説が正しいかどうかはともかく、香港では国家安全法の適用が決まって以来、人材の流出も進んでいるようである。香港に絶望した優秀な人材が海外に流出しているようなのだ。もし中国政府が香港の骨抜きを望んでいるなら、ここまでの流れは中国政府の思惑通りに進んでいると言ってもいいだろう。今後骨抜きが更に進めば、深圳の地位は高まり、香港は中国に支配される単なる小さな地方都市へと下落するだろう。

 話をイランに戻すと、最初イランにおけるデモの要求は王の廃位ではなく、立憲民主制の確立であった。つまり、パフラヴィー王がイラン憲法を遵守し、国民が選んだ首相に政治的権限を持たせることを民衆は求めた。こうした民主化運動の中で、ホメイニー派の言う王の廃位とイスラム国家建設は少数派の夢にしか過ぎなかった。

 しかし運動が激化する中でナショナリズムが高揚し、民衆が新たなイランの夢を託すべきリーダーはホメイニーだということになった。こうして、いつのまにか立憲民主制とは異なる宗教国家の成立となった。少数派に過ぎなかったホメイニーがいつのまにか多数派となり、結果的にホメイニーの夢が叶ったわけだ。

 民主化運動は激化すると、最終的に民主主義とはまったく違った結果を招く場合がある。天安門事件もそうであるし、イランの民主化運動もそうである。香港の民主化運動の結果も、今のままだとそうなる可能性が高い。民主主義は運動の熱が高まれば自動的に達成されるというものではない。むしろ沸騰した運動は、まったく違った結果を招くというのが歴史の教訓である。もしかしたら、熱くなって我を忘れた運動体は、冷静で狡猾な誰かに利用されてしまうのかもしれない。

 

2.イラン革命防衛隊の誕生

 ホメイニーの唱えるイスラム国家建設運動は、民主化運動ではなかったので、反王運動の中でも少数派に過ぎなかった。彼は支持者が少なかろうが多くなろうが、その主張は一貫して変えなかった。ただ、ホメイニーが変わらないのに反比例して、大衆の方が運動の激化とともに変わっていった。こうしてホメイニーは一部の間で人気のあるカリスマから、国民的カリスマへと変わっていった。

 このカリスマを中心として運動を激化させ、ついにイラン国民は憎きパフラヴィー王をイランから追い出した。国民は熱狂したが、いざカリスマのホメイニーが国家のトップに君臨すると、そこには夢のイランからは程遠い情景があった。蓋をあけてみれば野党間のバラバラの主張が表面化し、激しい対立となったのである。

 かつて王政府と戦うために一致団結した野党勢力は、ホメイニー派が政権を取った後はほとんどが敵となった。結局のところ革命政府はイスラムシーア派、その中でもホメイニー派の宗教指導者をトップとする政権であるから、共産主義社会主義は不要である。そのためトゥーデ党(イラン共産党)やムジャヒディンハルク、フェダインハルクといった政党は敵となった。

 また、地方で自治権を主張していたクルド人などの少数民族も敵となった。少数民族とは言っても、クルド人はイランの人口の7%を占める大きな勢力である。彼らに自治を認めるとその波及効果は大きく、バルーチ人などのイスラムスンニ派勢力も自治を強く要求してくるだろう。そのためホメイニー政権としてはクルド人自治は認めるわけにはいかなかった。

 ホメイニーは15年ぶりにイランに帰国してからバクティヤール政権と武力衝突して政権を掌握したが、政権を取った後も各政党と武力衝突することとなった。こうした中で誕生した組織がイラン命防衛隊である。

 

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Islamic Revolutionary Guard Corps, 1983

 日本の報道では革命防衛隊がイランの精鋭部隊という表現がなされることが多い。しかしそのような表現だと誤解を招く。まるでイラン国軍の内部に革命防衛隊という精鋭部隊が存在するかのようである。

 

米軍、イラン革命防衛隊幹部を空爆で殺害 高まる緊張感

https://www.asahi.com/articles/ASN133RKTN13UHBI00H.html

 

 革命防衛隊はイラン国軍の中にある精鋭部隊ではなく、国軍とは別の組織である。あくまでもホメイニー政権のための軍隊であり、ホメイニーを頂点とする政党を守るための軍隊である。ホメイニーは国軍を信用しなかったので、国軍とは別の軍隊を持つ必要があった。

 ホメイニーが国軍を信用しなかった理由は歴史にある。モサデク政権を潰したのは、王やCIAと結託したイラン国軍であった。またバクティヤール政権との抗争時には国軍が二分し、バクティヤール派とホメイニー派で分裂した。つまり、ホメイニーが政権を握っても軍が全面的にホメイニーの味方をする保証はない。そもそもイラン国軍はパフラヴィー王および米軍によって組織された軍隊である。いつ裏切るかわからない。

 中国の人民解放軍が中国国民の味方ではなく、あくまでも中国共産党を守るための軍隊であるのと同じように、イラン革命防衛隊はホメイニー派の政治グループ(宗教グループ)を守るための軍隊であって、イラン国民のための軍隊ではない。それは、仮に国軍が国民と結託してホメイニー政権を潰そうとしたら、ホメイニー政権は革命防衛隊とともに徹底抗戦するという意味である。

 第四十四回ブログで取り上げたソレイマニ将軍は、革命防衛隊に属する軍人である。彼は国軍の人間ではない。つまり、政権を守るためなら同じイラン国民に対しても躊躇なく銃口を向ける人間である。これは「軍隊」と聞くと国軍しか頭に思い浮かばない日本人からすれば、理解し難いものである。しかし、世界ではそういう国も多い。政権の下でシビリアンコントロールを期待しても、軍が政権の言うことをきくとは限らない。だから、政党が軍隊を持っている国はかなり多いのだ。

 政党が保有している軍隊は、そもそも国内で他の勢力と戦い、政権を奪うため、または奪った政権を保持するための軍隊である。だから、基本的にイラン革命防衛隊は米軍などの外国軍と戦うための軍隊ではない。内戦においては躊躇なく自国民を殺害し、反政府デモにおいては市民に対して発砲するのがその仕事である。そして場合によっては国軍と戦うこともその仕事に含まれる。

 革命防衛隊の最初の仕事は、自治を要求してきたクルド人武装勢力との戦いであった。クルド人クルディスタン民主党(KDP)という政党を持ち、そして政党であるから当然に武装していた。同じイラン国民同士であるが、互いに武力を持ち、政治的要求をし合いながら、最終的には武力衝突も辞さない。国会で話し合いがつかない場合は武力衝突に発展し得る。政党が武装している国では、同国人同士で戦争に発展する可能性が常に存在するのだ。

 

3.リベラリスト政権からイスラム共和制

 国民の熱狂をもとに成立したとは言っても、成立当初のホメイニー政権は脆弱であった。外にはアメリカという敵が存在し、内には他の政党やクルド人などの敵が存在した。そのためホメイニーは最初、リベラル派とともに政権運営を試みた。首相にメフディー・バザルガン(Mehdī Bāzargān 1907-1995)を指名したのはそのためである。モサデク派のバクティヤールと対立し、内戦の後にバクティヤールを権力の砦から追放したホメイニーであったが、自身が指名したバザルガン首相もモサデク派のリベラリストであった。

 バザルガンはモサデク政権時に国営イラン石油会社の社長を務めた人物であった。モサデクが首相に就任した時のイランにおいては、アングロ・イラニアン社(イギリス)が石油を牛耳っていたが、モサデク内閣がイギリス人を追い出し、石油を国有化したのである。その国有化した石油会社の舵取りをモサデクから任された人物がバザルガンであり、要はイランの石油の象徴のような人物であった。彼はフランスに留学し、帰国後はテヘラン大学工学部長を務めた優秀な学者でもあった。

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Mehdi Bazargan

 モサデク政権崩壊後、バザルガンは民主化運動の指導者となり、立憲民主制を主張した。彼は王の廃位までは求めなかったので、王制は肯定した。しかし、王の憲法遵守と内閣の民主化を要求したため、パフラヴィー政権下で何度か投獄された。このように、彼はイランの石油と民主主義の象徴のような人物であったため、ホメイニーもその人気を政権に取り込みたいという思惑があった。

 政権を奪取してもホメイニーのまわりには敵だらけだったため、その状況で旧モサデク派のリベラリストたちと対立したら、さすがのカリスマも政権運営が不可能だと判断したのだろう。また、民衆がデモの当初に望んだものは宗教国家ではなく立憲民主主義であるから、ホメイニーがこの不安定な時期にモサデク派のリベラリストを首相に据えることは国民の期待から考えても当然であった。

 もしかしたら、この時点でのイラン民衆の望みは、新たな立憲民主制だったのかもしれない。つまり、政権運営はモサデク派のリベラリストが行い、ホメイニーは王なきイランの新たな象徴的立場にとどまると。しかし、ホメイニーはそんなことはまったく考えていなかった。彼はリベラリストの首相に政権運営を任せ、自身は象徴的立場で政治には口を出さないという人物ではなかった。

 最初、ホメイニーは柔軟な姿勢をとるように見せた。しかし、それは最初だけだった。彼は憲法の全面改正を望んでいた。イランには立憲民主制の憲法があった。ただ、パフラヴィー王は憲法を守らず、国民が選ぶ首相ではなく、王が選ぶ首相に国家の舵取りを任せた。内閣は王やアメリカの顔色ばかりをうかがい、国民の方を向かない。これが国民の不満であり、大衆デモ激化の原因であった。

 つまり、バザルガンなどのリベラル派が望んだことは既存の憲法の遵守であり、死に体となった憲法の復活であった。当然、バザルガンもホメイニーなどの宗教指導者に対してそれを主張したが、ホメイニーを頂点とした宗教指導者たちは既存の憲法にまったく興味を持っていなかった。むしろ、完全に作り変えることを望んだ。それはイスラム指導者(イスラム多数派ではなくホメイニー派のイスラム教指導者)が国民を導くという内容の憲法であり、それは王制でもなければ立憲民主制でもなかった。

 バザルガンは敬虔なイスラム教徒であったが、同時に民主主義者であった。そのため彼は新しい憲法の内容に反対であったし、ホメイニーたちが考えた「イラン・イスラム共和国」という新しい国名にも反対だった。しかし、愛国的運動と熱気の高まりの中で、バザルガンの主張は政府内においても世論においても多数派の支持を得られなかった。

 こうした中で新しい憲法が1979年10月の国民投票で承認された。その後大事件が起きる。熱狂的な若者たちがテヘランアメリカ大使館になだれ込み、アメリカ人の大使館員を人質にとったのだ。1979年11月4日のアメリカ大使館人質事件である。バザルガンは人質の即時解放を主張したが、ホメイニーたちイスラム指導者はむしろ大使館になだれ込んだ熱狂的な若者たちを支持し、人質を解放しなかった。

 

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Iranian students crowd the U.S. Embassy in Tehran (November 4 1979)

 これに対して世界の民主主義国家は反発し、バザルガンはこれをイランの民主主義の死と見た。何もできないという無力感の中で、バザルガン内閣は総辞職した。結果的に政権内からリベラリストを放逐できたホメイニーは、この後自分の仲間内のみで政権運営ができることとなった。イランはホメイニーの思惑通りに進んで行ったのである。

第六十五回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(15)

0.前々回の続き

 今回からイランの現代史に戻りたい。第六十三回ブログの続きである。

 

1.立憲民主制の終焉

 1979年1月16日、イラン王であるモハンマド・パフラヴィーは、イランから出国した。王はその後イランの地を踏むことなく、翌年カイロで死去した。一方、王がいなくなったイランではバクティヤール内閣が奮闘していた。

 1978年末に王から首相の指名を受け、翌年1月に発足した内閣であった。緊急の課題は混乱の鎮静化であり、目標は民主主義の確立であった。独裁者はいなくなったのだから、モサデクが志半ばで諦めたイランの民主化を実行するチャンスであった。

 しかしその試みも束の間、大事件が起こる。1979年2月1日、フランスにいたホメイニーがエールフランスの特別機でイランに帰国したのだ。ホメイニーがイランの地を踏んだのは1964年の追放以来であるから、15年ぶりの帰国であった。

 

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Arrival of Ayatollah Khomeini on 1 February 1979

 イラン政府系のニュースサイトPars Todayによると、この時熱狂的に集まった群衆の数は世界記録となったそうである。

 

イラン、世界最大の群衆の集結地

https://parstoday.com/ja/news/iran-i50746

 

 熱狂的に国民から迎えられたホメイニーは、すぐにイスラム革命評議会をひらいた。構想15年のイスラム国家を樹立するためである。ホメイニーからすれば、パフラヴィー王の指名を受けて成立したバクティヤール内閣は無効であった。王という存在自体がホメイニーからすれば違法なのだから、違法な存在によって指名を受けて成立した内閣も違法である。革命評議会はメフディー・バザルガン(Mehdī Bāzargān 1907-1995)を首相に任命し、革命政府における内閣が成立した。

 

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Ruhollah Khomeini and Mehdi Bazargan

 これは、バクティヤール政権からすれば寝耳に水である。15年間イランを離れていた宗教家が帰国し、いきなり別人を首相に指名した。バクティヤールからすれば自分達こそが正規の政府なのだから、革命評議会の決定を認めるわけにはいかない。こうして1979年2月、イランには二つの政権が並び立つこととなり、内戦状態となった。

 政権が二つ成立するとともに、軍も二分した。これまで王に忠誠を誓っていた親衛隊、陸軍空挺部隊内務省治安部隊は、王が指名したバクティヤール政権を支持した。他方、軍内にはホメイニー支持者たちがいたので、両グループは対立し、戦闘状態になった。この時、王の軍隊と長年対立してきたムジャヒディンハルクやフェダインハルクがホメイニー派に加わった。

 ムジャヒディンハルクはイスラム社会主義の政党であり、フェダインハルクは非スターリン派(つまり非ソ連派)のマルクス主義政党である。これによりホメイニー派を中心とする反政府軍の軍事力は政府軍を上回るものとなった。

 日本国民にはピンと来ないだろうが、世界の様々な国々では政党が軍事力を持っている場合が多い(第四十四回ブログ参照)。例えば人民解放軍中国共産党という政党の軍である。ムジャヒディンハルクやフェダインハルクは政治集団であるが(政治集団であるゆえに)、軍事力を持っている集団である。

 日本では自民党公明党といった政党が軍事力を保有しないために、日本人は軍と言われれば国軍しか頭に浮かばない。しかし世界の多くの国々、特に発展途上国ではその常識は通じない。政党が軍事力を持っていることが当たり前の国々の人達がもし、「日本ではおよそ70年に渡って自民党一党独裁である」という話を聞くなら、彼らは「自民党は凄い軍隊を持っているんだな」と想像するかもしれない。

 ムジャヒディンハルクやフェダインハルクは、それまで反王という目標のために戦い、多くの犠牲者を出してきた。それゆえここで政府軍の味方をするわけにはいかなかった。ホメイニー派とそうした援軍が結びつくことで、戦いは2月11日に終わった。政府軍はあっけなく敗北し、首相や大臣などは逮捕された。バクティヤール政権は一か月しかもたなかった。こうして立憲民主主義のイランは滅亡した。

 バクティヤールは王が逃げ去ったイランにおいて、首相としてイラン軍の最高責任者となるしかなかった。それゆえ武装蜂起が起きたら、正規軍によってそれを鎮圧するしかなかったが、革命軍からすれば正規軍は王制の象徴であり、打ち倒すべき敵であった。こうしてバクティヤールは、一か月前までは反王派として仲間であった人間と戦争をすることとなり、敗北し、逮捕された。

 この結果、王もいなければ王が指名した内閣も消滅し、イラン・イスラム共和国が誕生した。これは民主主義国家ではない。また連立政権でもない。つまり、かつて王制打倒のために一緒に戦った政党は、新政府にとって邪魔である。かつて反王運動で戦友だったムジャヒディンハルク、フェダインハルク、トゥーデ党、国民戦線は敵となった。こうしてイラン・イスラム共和国は、内に分裂を抱え、外にアメリカという敵がいるという難しい国となったのである。

 

2.ナショナリズムの熱狂の中、民主主義は捨てられる

 バクティヤール政権という民衆が長く渇望してきた立憲民主主義のイランはあっというまに崩壊した。そして、王制でもなければ民主主義でもないという宗教国家があっというまに成立した。これはある意味、民衆の多数派が望んできたものとは違った結果となったと言える。と同時に、民衆の多数派が選択した結果だとも言える。つまり国民の多数派は、長年自分達が渇望してきたものではないものを選択したのである。なぜだろうか。

 その答えを探るために、歴史を振り返ってみよう。もともとイラン国民の多数派が求めていたものは立憲民主主義であり、王の廃位ではなかった。民衆の不満は以下の三点だったと言えるだろう。

 

①王がCIAの言いなりになっており、内閣が王の言いなりになっていること。

②政策決定の全てがアメリカおよびイランの富裕層のためになされていること。

③石油が欧米石油メジャーに強奪されていること。

 

 この三つの壁を乗り越えるために、イランの民衆は内閣を王(およびCIA)から取り戻し、国民のための内閣を打ち建てることを目標とした。すなわち王に憲法を守らせ、国民が選んだ政治家によって国のことを決めるということである。主権が国民になく、アメリカの傀儡政権に全てが握られているという状態の脱却を国民は望んだのであり、王を廃位することまでは望んでいなかった。

 これは宗教界でも同様であった。第六十二回ブログで紹介したモハンマド・シャリアトマダーリーのような宗教界の大物も、立憲民主主義を望んでいた。王を廃位し、国のトップを宗教者で占めるという思想は、ホメイニー派だけが考えていたことであり、宗教界の多数派においてもホメイニー派は過激だと思われていた。

 しかし1978年の頭から始まった血で血を洗う闘争は、徐々にエスカレートし、国民の感情も沸騰するようになった。冷静な判断ができなくなれば、過激な思想が求められるようになる。そして、当初の目標は忘れ去られる。民衆が主権を回復することよりも、王(アメリカ)を打ち倒すことが目標となっていったのだ。戦争状態になれば人権よりも憎悪が上回り、主権よりも勝利が目標となってくる。

 この熱狂にはメリットとデメリットがあった。メリットは、それまでバラバラであった野党側が一つにまとまったことである。平時においては野党側もバラバラであった。そのためパフラヴィー王制は不安定ながらも安定していた。パフラヴィー王制が優れていたというより、野党がお互いに喧嘩をしてくれたために、パフラヴィー政権は助かったのである。

 しかし度重なるデモと増加する死傷者の連鎖の中で、国内はある種の内戦状態となった。こうなると、野党側もそれぞれの立場を主張するよりも、目の前の戦いに一致団結しようとなる。政党間の主張の違いは棚上げとなり、共通の敵に対する憎悪で一枚岩となる。しかしこのメリットはデメリットでもある。熱狂状態は一枚岩というメリットを生み出すが、その裏で巨大なデメリットを生む。民衆が当初の目標を忘れ、ナショナリズムに熱狂してしまうのだ。

 こうなると穏健で平和主義的な政党は、民衆にとって魅力的なものに見えなくなってくる。逆に、それまで過激派として疎まれていた攻撃的な政党が、魅力的なものに見えてくるようになる。こうしてナショナリズムの熱狂の中、当初の対立の図式である「民主主義VS独裁」が、「国民VS王」、「イラン人VSアメリカ人」、「イスラム教徒VS欧米人」という図式にすり替えられていく。

 こうして民衆は平和と民主主義よりも、民族の誇りを鼓舞するリーダーを求めるようになる。ナショナリズムの熱狂の中で、最初の目標は忘れ去られる。民主主義は放棄され、カリスマ性のある民族主義者が求められるようになる。こうした熱狂の中で、空から降ってきたのがホメイニーであった。

 

3.熱狂の民衆心理はアジテーターを求める

 エールフランスの特別機で空港に降り立ったホメイニーは、国民に熱狂的に迎えられた。それまで一部の過激派にしか支持されていなかったホメイニーは、闘争で熱くなっていた国民にとっては強力なリーダーに見えた。

 「頭を冷やせ」と説教する知的なインテリは、そこでは求められない。求められる人物は、火に油を注ぐアジテーターである。アジテーターは対立の構図を鮮明にし、大衆に向かって敵をわかりやすく指差す。アメリカを「大悪魔」と15年に渡って言い続けたホメイニーは、平時においては過激派だった。しかし、戦時においては光り輝く救世主に見えるようになった。ホメイニーが変わったのではない。民衆が変わったのだ。

 民衆のデモを暴力で押さえつけたパフラヴィー王は、民衆の冷静さを失わせた。これによって、ホメイニーが政権を取る土壌がつくられた。「独裁VS民主主義」の戦いは、結果として「独裁」も「民主主義」も勝たなかった。両方とも敗れ、勝ったのは両者とも望んでいなかったホメイニーであった。

 人間が冷静に物事を考えることができない時、熱狂の中で選択した結果が想像もしなかったようなものとなると驚くものである。しかし「こんなはずではなかった」と思っても、それを選択したのは紛れもなく本人である。熱狂的にホメイニーを支持した人達は、イスラム革命が成功した後のイランの状況に驚いた。

 パフラヴィー王のもとでは一応形だけとはいえ存在した民主主義は消え去った。信教の自由はなくなり、イスラムシーア派以外は生きずらい国となった。また同じシーア派であってもホメイニー派以外は認められないので、シャリアトマダーリーのようなシーア派多数派の大物でさえ弾圧された。

 立憲民主主義を主張するシャリアトマダーリーはホメイニーと対立し、後にホメイニーから自宅軟禁処分を受ける。シャリアトマダーリーを尊敬していたホメイニーは、かつて敬った師と対立し、自宅に閉じ込めたわけである。

 

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Shariatmadari and Khomeini

 地方自治も認められなくなった。そのため、クルド人などの非主流派民族は迫害されるようになった。自治権を求めれば、暴力で鎮圧された。政党の自由はなくなったので、野党は迫害された。かつて反王戦争でホメイニー派と戦友だったムジャヒディンハルクなどの政党は、テロリスト認定されることとなった。女性は髪型の自由を奪われ、ヒジャブをつけることが義務付けられた。

 ペルシャ人のみならず様々な民族と宗教で成り立っている多民族国家イランにおいては、元来自由と独立を望むイラン人の気風があり、権力に従順な国民性ではない。そのため、それを無理やり押さえ込むとなると、かなりの暴力が実行されることとなる。イランが現在でもアムネスティなどに批判されているのはそのためであろう。

 

イラン、17歳2人の死刑執行 人権団体が非難

https://www.cnn.co.jp/world/35136482.html

 

裁判官 4000人を死刑にした男 【日本初公開】

https://asiandocs.co.jp/con/224?from_category_id=5

 

 私は第十四回ブログにおいてバルーチ人組織について書き、また第四十六回ブログにおいてアルバニアを拠点として活動するムジャヒディンハルクについて書いた。彼らが今でもイラン政府に反抗するのは上記のような理由がある。彼らは長きに渡ってホメイニー派とともに、反王、つまり反米の戦いをしてきた。

 しかし、ホメイニーのイランが成立した後、彼らはCIAから資金援助を受け、反政府運動を展開している。戦いによる解決を夢見た彼らは、今でも戦い続け、解決は夢のまた夢である。その戦いでは敵と味方が逆になり、昨日の敵は今日の友になり、昨日の友は今日の敵になる。自由を求める戦いは、不自由と対立と予想外の結果を生み出しているのである。

第六十四回 文春砲は牧場の柵内でのみ炸裂する

0.予定の変更

 イランの現代史の続きについて書く予定であったが、今回は予定を変更し、検察官と新聞記者による麻雀大会について報じた「文春砲」について考察していきたい。

 

1.「ズブズブ」ではなく「同僚」

 文春砲によって、黒川検事長と新聞記者による「賭けマージャン」が明らかになったようである。

 

黒川弘務東京高検検事長 ステイホーム週間中に記者宅で“3密”「接待賭けマージャン」

https://bunshun.jp/articles/-/37926

 

 この「文春砲」については各界で賞賛の声が上がっているようである。

 

東国原英夫 黒川検事長“文春砲”を絶賛、国会内に「文春、新潮諮問委員会みたいなものを設けて」

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/05/21/kiji/20200521s00041000268000c.html

 

 この事件は多くの人から「検察と大手メディアのズブズブの関係」と見られているようである。

 

堀江貴文氏「検察とマスコミはズブズブ」 黒川氏が賭けマージャン報道認め辞意

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200521-00000044-dal-ent

 

 今回の「文春砲」は賞賛されている。確かに、朝日や産経のような巨大メディアは、今回のような事件を永遠に報じないだろう。その点では文春を評価すべきという意見もあろう。しかし、次の点に注意したい。それは、この国のメディアは肝心なことは絶対に隠すという点だ。

 文春が巨大新聞と異なる価値を持っていることは事実であろう。しかし「売れっ子メディア」として我が国で地位を確立している媒体は、例外なく「隠す」能力を持っている。植民地のメディアは、この「隠す」能力が必須である。何を隠すのか。それは植民地経営の構造である。今回は、文春のような過激に見えるメディアであっても、この原則が不変であることを例証したい。

 植民地メディアの仕事は、全ての事実を国民に開示することではない。そこには取捨選択があり、肝心要なことは隠す。そして氷山の一角を見せることで、国民に夢を見させる。それは、この国が独立国だという夢である。

 例えば今回の文春砲を見れば、堀江貴文氏の言うとおり、検察と新聞が「ズブズブの関係だ」という印象を読者が持つ。それは、この国の検察や新聞が独立組織だという夢を見ることだ。夢を見てしまうと、夢の背後に厳然と存在するこの国の構造を見落とすことになる。

 多くの人は、この国に検察、裁判所、国会、官庁、新聞社・・・といった独立組織が存在すると思っている。しかし、実際に存在するのは一つの組織である。そのトップは日本人ではなく、外国人である。検察や新聞といった組織は、この組織内の「部門」に過ぎない。一つの屋根の下に、「検察部門」や「メディア部門」などの各部門が存在するのだ。

 だから、検察と新聞が「ズブズブの関係」であるという見方は誤っている。検察も裁判所も、内閣も新聞も、一つ屋根の下の兄弟に過ぎない。同じ職場の同僚が、賭け麻雀をしただけである。そういう見方をすれば、彼らの麻雀はむしろ自然の成り行きに見える。

 これは日本だけでなく、世界的な組織構造でもある。一見バラバラの組織が同じ穴のムジナであることについては、第三十回ブログで述べた。例えば、緒方貞子の経歴は、国連、外務省、ユニセフ上智大学、JICAと変遷しているが、一つの屋根から一歩も外に出ていない。スノーデンは米軍、NSA、CIA、DELLコンピューター、ブーズ・アレン・ハミルトンと、十年のあいだに四回転職しているように見えるが、実は一回も転職していない。異動しているだけだ。

 もちろん、検察と新聞はRevolving Door(回転ドア)の関係ではない。検事長が退職後に新聞社の取締役になることはおそらくないだろう。しかし、彼らが「一つの屋根」に属する同僚であることは間違いない。私はそれを「カポー」と呼んでいる(第三十一回ブログ参照)。彼らは一つの目的を持った一つの組織、「Company(panパンをcom共有する者たち)」に属する人間である。

 

2.カポーはカポーに対してムチをうつ

 以下の人達は、戦後の日本を動かした大物たちである。さて、この人達の共通点は何だろうか。

 

岸信介:総理大臣

賀屋興宣自民党政調会長日本遺族会初代会長

正力松太郎読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役読売ジャイアンツ創立者

児玉誉士夫全日本愛国者団体会議右翼団体)指導者

笹川良一日本船舶振興会日本財団の前身)会長

田中清玄:元日本共産党中央委員長、三幸建設、光祥建設社長

笠信太郎朝日新聞常務取締役論説主幹

緒方竹虎:副総理大臣、朝日新聞副社長

野村吉三郎:駐米大使、外務大臣、日本ビクター社長

 

 これらの人達は、政界、経済界、マスコミ、右翼、左翼と多岐にわたる。職業だけを見ていると、何の共通点もない。表の看板だけを見ていてもわからない。彼らはバラバラに見える。しかし、実際は同じ組織のメンバーである。

 彼らはCIAのエージェントである。つまり、彼らには共通のボスがいる。そのボスは外国人である。職業は違えど、同じ組織の仲間である。同じ屋根の下で、ある者は政治家、ある者はマスコミのトップ、ある者は経営者、またある者は右翼団体のカリスマとして動く。部署は異なるが、同じ目的で動く。その目的は植民地経営である。

 だから、彼らをバラバラのものと見ると真相を見誤る。例えば総理大臣がヤクザのカリスマと会っていたとしよう。それは政界と裏社会がズブズブだったというスキャンダルではない。もし、そういう報道が為されたとしたら、それは一見「特ダネ砲」のようでいて、実は肝心のことを隠した報道である。

 それは「ズブズブ」とはまったく違う。なぜなら両者ともCIAのエージェントであり、同じ組織に属する同僚だからである。総理とヤクザが夕食をともにするのはスキャンダルだが、エージェント同士が会って情報交換をするというのは奇妙でも何でもない。政界と暴力団が「ズブズブ」だという報道は、一見すると権力に対する告発のようだが、実は両者がCIAだという事実を巧みに隠す報道である。

 つまり、それは一見告発のようでいて、実は協力である。CIA総理とCIAヤクザの会談を報じるメディアは、両者の頭から「CIA」という文字を削除し、あえて「総理とヤクザの会談」として報じる。こうすれば、両者がCIAであるという事実を国民に隠すことができる。

 メディアは「報道」によって「隠蔽」を達成する。国民はメディアから情報を得ることによって、真相に対して盲目になる。なぜメディアがこのような「協力」をするのかと言えば、メディアもCIAだからである。彼らは「一つの屋根」の下で「メディア部門」として役割を果たす。

 もちろん、そうした「特ダネ砲」によって首相は辞任に追い込まれるかもしれない。しかし、トカゲの尻尾を切ることで本体は生き残る。本体が生き残れば問題はない。機械全体から見れば、首相であっても歯車でしかない。現場監督の首は交換され、新しい首になる。歯車が適宜交換されることで機械は動く。

 私は第二十二回ブログで、植民地の四層構造について説明したが、もう一度列挙しておこう。

 

A.支配者(外国人)

B.Aの手足になる植民地の政治家、官僚、大企業経営者(年収はDの2倍~100倍)

C.この支配構造を国民に知らせないように頑張る大手メディア(年収はDの2倍~4倍)

D.この構造を知らない(知る気がない)一般国民(生涯納税額5000万~6000万)

 

 文春はこの構造を決して報道しない。「検察官と新聞記者が賭け麻雀をやった」というどうでもいいことで騒ぎ、肝心のことを隠す。それは文春もCであり、Aの部下だからであろう。文春であろうが何だろうが、我々が紙媒体やネットなどで自由に見ることができる情報は、我々が「見ていい情報」だということである。Dが見てはいけない情報が、市販の雑誌に載るはずがない。

 そもそも黒川検事長は麻雀やカジノが大好きで、それを公言していた人物である。つまり、黒川検事長が賭けマージャンの常習犯であることは、文春に限らずマスコミの検察担当なら誰でも知っていたことだ。知らぬは国民ばかりなりで、文春がそれをこのタイミングで出したから「文春砲」になっただけの話である。

 黒川氏は安倍内閣のために滅私奉公してきた。しかし不要になった忠犬は棄てられる。弱った奴隷は力のある奴隷に容赦なく攻撃される。ローマ史研究者のジェリー・トナーはそれを次のように表現している。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 78頁

あなた方も容易に想像できるだろうが、主人の奴隷に対する態度より、奴隷同士のほうがはるかに暴力的だ。奴隷たちは常に地位の奪い合いをしていて、どっちが上だ下だと口論し、些細なことで侮辱されたと騒いでけんかをするし、それが単なる言いがかりであることも少なくない。

 

 奴隷は柵の中で常に権力争いをしている。文春が検察という権力に反抗したのではない。文春というカポーが、黒川という落ち目のカポーを穴に突き落とすという仕事を実行しただけである。だから文春はBに対して「文春砲」を発射しても、Aに対しては絶対に「砲」を向けない。カポーが攻撃していいのはカポーだけである。ムチを主人に向けたらおしまいである。

 その意味では、この国に「反権力メディア」は存在しない。本当の権力に刃向かったら、そのメディアは抹殺されるからである。だから「文春砲」の餌食になるのはいつも日本人なのである。

 

3.カポーはカポーであることを隠したい

 エージェントにとってボスは外国人であるから、自国の利益や法律はボスよりも下に位置付けられる。その例は、第二十回ブログにおいて見た。砂川事件である。田中耕太郎裁判長は東京地裁の「伊達判決」を、最高裁が開かれる前にアメリカ大使にホテルで会い、破棄することを約束していた。これは裁判所法に照らせば違法であり、普通なら即刻クビである。

 しかし、田中裁判長はクビになってないし、辞任もしていない。むしろ後に彼は勲一等を受勲している。なぜなら彼は植民地におけるカポーとして、立派な仕事をしたと評価されたからである。普通なら裁判所法違反をしたら裁判官失格であるが、植民地管理の仕事においては、植民地の法律を全部守っているわけにはいかない。そんなことをしていれば、植民地の管理は不可能だ。

 田中裁判長の行為も、植民地の法律に照らせば違法であるが、彼の仕事は裁判官という名の植民地管理官である。裁判官として見れば彼の行為は違法であっても、植民地管理官としては判決前に上司であるアメリカ大使にその旨報告することは業務上当然である。

 田中氏は裁判官であったが、同時にエージェントであった。エージェントはまずエージェントの仕事を優先すべきであるから、植民地における法律よりもエージェントの仕事を全うした彼は、国家から褒めたたえられ、勲章が贈られたのである。

 日本の法曹界のトップが国内法よりもエージェントの仕事を優先したというこの事件については、文春も含め日本のマスコミは全て隠した。それは宗主国の圧力ではなく、カポー達が自らを守るためである。彼らにとって最も恐いのは、アメリカ人よりも日本人である。自分達の行為がバレれば、愛国の志士に殺される可能性がある。

 しかし、そうしたカポー達の恐怖心を無視する形で、宗主国はためらうことなく情報を公開してしまう。冷酷な主人は平気で忠犬を捨てるのだ。田中裁判長の件においても、日本のマスコミはスクラムを組んで情報を漏らさなかったが、アメリカ側が日本の了解を取らずに突然公開してしまった(第二十回ブログ参照)。

 これは確かにひどい話である。滅私奉公、アメリカのために働いてきた忠犬は、日本国内では権力のトップであり、偉人である。メディアの協力により偉人が忠犬であったことは隠され、国民の尊敬を受けてきた。それが宗主国の情報公開により全てがパーになる。子孫は恥をかく。貴族の血統は一瞬にして売国奴の血筋になる。日本のカポー達からすると、これは非常に困る。

 カポー達のこうした困惑を代表して、外務省は「公開しないでくれ」とアメリカに頼んでいる。外務省のこの要請は、文春も含め日本のマスコミは報じない。ただ、CIAからお金を貰えなかったと思われる西日本新聞だけが、これを報じた。

 

「外務省が機密解除に反対」 CIAの自民政治家へ資金 米元諮問委員が証言

https://newspicks.com/news/1332743/

 

 西日本新聞のこの記事は、現在削除され見ることができない。ただ、次のブログにこの新聞記事の内容が記載されている。

 

「外務省が機密解除に反対」 CIAの自民政治家へ資金 米元諮問委員が証言(西日本新聞

https://blog.goo.ne.jp/naha_2006/e/01826f8e553f850508f47fce6429c264

 

 西日本新聞のような規模のマスコミだと、もしかしたらCIAのお見舞が来ないのかもしれない。大手新聞社の敏腕記者なら、病気で入院した際にCIAがお見舞いに来る。これについては第二十七回ブログで述べたが、記事をもう一度挙げておこう。

 

CIAスパイ養成官キヨ・ヤマダ、日本企業に今も残る「教え子」たちの影響力

https://diamond.jp/articles/-/213851

 

 アメリカが公開する情報を、なぜ日本人は見てはいけないのだろう。日本国憲法に照らせば、日本国民には憲法21条で「知る権利」が保障されているから、こうした外務省の行為は国民の「知る権利」に対する侵害であり、違憲であろう。しかし西日本新聞以外のマスコミはこれを報じない。

 国民の「知る権利」という点から考えれば、麻雀事件よりこの事件の方が遥かに重大であろう。しかし、そこに「文春砲」は炸裂しない。文春自慢の大砲は、肝心なことになると沈黙する。そう考えるとこの大砲は実は「砲」ではなく、牧場の柵の内側で鳴り響くラッパのようなものではないか。それは柵の中の無知な羊たちを興奮させる力はあるかもしれない。しかし、牧場の存立自体を揺るがすものではない。

 黒川検事長というカポーの一人がこのラッパによって辞任しようが、本丸はビクともしない。それゆえ今日も植民地経営は安泰である。それにはマスコミの力が大きい。彼らの高度な頭脳と巧みなテクニックのおかげで、羊たちは独立国の夢を見る。

 売れっ子メディアは日本人の見たい夢を見せるために存在する。それゆえ、この国のマスコミにジャーナリズムを期待しても無駄である。彼らは言葉の魔術師であり、我々を白昼夢に誘い込むプロフェッショナルだ。ただ、そういうメディアであっても我々が読み方を変えるなら有益なものとなりうる。

 ポイントは、メディアが提供する「記事」を読むのではなく、「意図」を読むことである。相手が「言っていること」を読むのではなく、相手が「隠したいこと」を読むのだ。それは紙面を見ながら紙面の裏側を見ることでもある。眼光が紙の表面を泳ぐだけなら、相手に支配されてしまう。しかし、眼光が紙背に達するなら、売れ線メディアも役に立つ。結局は我々一人一人の読み方にすべてはかかっているのである。

第六十三回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(14)

1.人権弾圧は石油によって容認される

 1978年、コムのデモが発端となり、イランでは各都市で反政府運動が行われるようになった。首都テヘランでは、10万人規模のデモが行われるようになっていた。地方では各民族による自治権の拡大が叫ばれ、労働者はストライキをするようになっていた。その中でもシャー(王)にとって最も痛かったものが、石油労働者のストライキであった。

 ここでも石油がキーポイントとなった。この国の歴史の歯車は石油を主軸として動く。安定した石油の供給は、パフラヴィー朝イランの屋台骨であった。王による人権弾圧は、石油のおかげで欧米諸国から容認されていた。それはアメリカの英雄ケネディ(John Fitzgerald Kennedy 1917-1963)も同様だった。

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Mohammad Pahlavi, John F. Kennedy and Robert McNamara

 人権弾圧を激しく嫌うケネディは、一時、改革派の首相を就任させるようにパフラヴィー王に強く要求した。そのためパフラヴィー王は嫌々ながらも、1961年、改革派のアリー・アミーニー(Ali Amini  1905-1992)を首相に指名した。アミーニーはモサデク政権で経済大臣を務めた人物であり、パフラヴィー王にとっては敵とも言えたが、植民地の王は宗主国の若き大統領に逆らうわけにはいかなかった。

 

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Ali Amini

 ケネディの後ろ盾を得たアミーニーは、就任早々農地改革を行い、地主から耕作地を取り上げ、小作人に与えようと試みた。しかし王や地主層はこれに反発し、サヴァクを用いて阻止しようとした。こうしてアミーニー派と王派が対立したが、街では学生たちが主体となって反王運動が盛んになった。

 運動が盛り上がるとともに、イランから欧米への安定した石油供給も危うくなった。これによりケネディ政権には石油関係者から圧力が加わることになった。結局ケネディ政権は、アミーニー政権への支援をストップすることとなった。ケネディという後ろ盾を失ったアミーニーは、1962年7月に首相を辞任し、改革派内閣はあっけなく敗れた。

 植民地において改革派内閣が線香花火のように散った翌年、宗主国で事件が起きた。1963年11月22日、ダラスのパレード中にケネディ大統領が凶弾に倒れたのだ。これにより宗主国の改革派政権もあっけなく終了し、副大統領のリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson 1908-1973)が大統領に昇格した。ジョンソンはフリーメイソンだった(1937年10月30日入会)。大統領がフリーメイソンでない場合、副大統領にフリーメイソンの人物があてがわれているのである(第四回ブログ参照)。

 国際資本家たちにとって、平和と人権を唱えるケネディは厄介な大統領だった。大統領が国民の人権や植民地の人権を重視したり、貧富の差を是正するためにFRBの金融政策に反対したり、平和を求めて軍産複合体と対立するようなら、上流階層の中で混乱が起こる。その混乱は、国民のあずかり知らないところで抗争へと発展する。

 結局、波風を立てない国家運営を望むなら、宗主国であろうが植民地であろうが、国家元首は言いなりになる人物が望ましい。空気を読んで、既得権益集団の利益に忖度する人物なら、上流階級の生活は安定する。その分、中産階級は痩せ細り、貧困層が増大し、一般国民の人権は著しく破壊されるが、上流階級にとっては安定した搾取ができればいいので関係ない。

 イランの場合、国家元首の仕事は石油の横流しである。石油を欧米のボスたちに横流ししている限り、その地位は安泰である。それゆえ、石油という巨大利権の中心にいたパフラヴィー王は国民の人権を弾圧しても容認された。

 民主主義を弾圧し、デモ隊に発砲し、死傷者が出ても、欧米に石油が供給されているならよかった。サヴァクが運動家を拷問し、虐殺しても、石油があればよかった。しかし石油の流れがストップするとなると、奴隷隊長の管理能力が疑問視されることになる。

 

2.混乱を巻き起こす大統領は短命である

 イランの話から逸れるが、ここでケネディの話をしておこう。ケネディは在任中にCIA長官のアレン・ダレスを解任している。アレン・ダレスは国務長官を務めたジョン・ダレスの弟であり、キッシンジャーの師匠である。モサデク政権を潰したアジャックス作戦の責任者でもあった(第五十一回ブログ参照)。

 

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J.F.Kennedy and Allen Dulles

 そのためこの解任はケネディにとって危険なものであった。もちろん、法的には大統領はCIA長官を解任する権限を持っている。その決定にロックフェラーの了承もCFR(Council on Foreign Relations)の認可も必要ない。

 しかし、ジョンとアレンのダレス兄弟はもともと国政にかかわる前は優秀な弁護士であり、彼らが運営する法律事務所はロックフェラー財団の利益のために尽力してきた。国政に入ってからは、モサデク政権から石油を奪い、もともとイギリスの独占だったイランの石油の4割をアメリカにもたらした。また、その後のイランの傀儡政権はアメリカから大量の武器を購入した。つまり、ダレス兄弟はアメリカ軍需村および石油村からすれば偉大な功労者であった。

 CIAがなぜ発展途上国の独立派闘士を潰すのかと言えば、搾取のためである。途上国においてCIAの言いなりになる元首を誕生させ、その国の資源をアメリカに横流しさせ、武器をふんだんに買わせることがCIAの仕事である。つまり、CIAはそれによって潤う企業に大きな貸しをつくり、CIAはそれによって潤っている。だからCIAに喧嘩をうるということは、その背後の企業群にも喧嘩をうることになる。

 もちろん、ケネディもバカではない。反発をかうのはわかってやったことだろう。J.F.ケネディは王族が存在しないアメリカにおいてロイヤル・ファミリーと呼ばれた名門ケネディ家の当主であり、ロックフェラー家とのつながりもあった。単なる正義のヒーローではなく、裏社会の抗争においても負けない自信があったのだろう。

 実際ケネディは、状況がまずくなったらあっさり手の平を返す狡猾さをも持ちあわせていた。イランのアミーニー政権をあっさり裏切ったところにも、その点がよくあらわれている。だからケネディ暗殺事件を、正義のヒーローが悪の帝国に負けたのだと解釈してしまうと、本質を見失うこととなる。

 ではケネディが負けた原因は何だろう。その答えは歴史の闇の中で謎となっているが、単純に推測すれば、ケネディ継続とケネディ排除の両方が比較され、継続の方が儲からないと計算されたからだろう。資本主義社会における合言葉は「いくら儲かるか」である(第五十二回ブログ参照)。ケネディが平和外交をして、大衆の人権を保護する。貧富の差を是正する。それは確かによいことである。しかし、投資家たちはこう聞きたい。「果たして、それはいくら儲かるのか。」

 貧富の差が是正され、自殺率が減り、国民の人権が守られることで、投資家たちはいくら儲かるのか。もちろん、投資家たちにしても戦争で人がたくさん死ぬことは嬉しいことではない。彼らは殺人鬼ではない。彼らとしても平和で人権が重視される世の中は結構なことだと思う。しかし、貧乏人が幸せになることが投資家の利益にどうつながるのか、その計算式は曖昧である。大事なことは計算式の明確性であり、その結果として人がたくさん死のうが、それは投資家たちにとって関心事ではない。

 ケネディの後任のジョンソンは、その収支決算書が明確だった。ベトナム戦争を拡大し、多くのアメリカ人兵士とベトナム国民が死んだが、軍産複合体は潤った。誰が何人死ぬかは投資家にとって問題ではない。いくら投資すればリターンがいくらなのかが問題なのだ。

 なお、ジョンソンの元顧問弁護士のバー・マクレランは、自著の中でジョンソンがケネディ暗殺事件の真犯人だと述べているが、証拠はない。

 

ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力 文藝春秋

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163676807

 

 また、誰か一人を犯人に仕立て上げても意味がないだろう。大統領暗殺という一大プロジェクトを一人で達成することは不可能であるから、犯人は特定の誰かではなく、大きな集団であると考える方が合理的だ。

 それはともかく、ジョンソンはケネディのような名門出身者ではなかったので、支配者層に対して従順であった。そのため彼は大統領に昇格した後、アレン・ダレスをウォーレン委員会と賢人会議のメンバーに入れている。ジョンソンの後に大統領になったニクソンは、国家安全保障会議のメンバーにアレン・ダレスを入れている。そういう大統領なら、老後の生活も安泰である。

 なお、ウォーレン委員会について知らない人のために、簡単に説明しておこう。ウォーレン委員会(Warren Commission)とは、1963年11月22日に起きたケネディ暗殺事件を検証するための調査委員会である。ここでの調査により、ケネディ暗殺事件はオズワルドの単独犯行という結論になった。

 もちろん、ウォーレン委員会の結論を素直に信じる人はほとんどいないだろう。現在、世界のほとんどの人がケネディを殺したのはCIAだと確信している。ケネディに恨みを持つアレン・ダレスがウォーレン委員会のメンバーに入っているわけだから、犯人が犯人を捜すための委員をやっているようなものだ。

 ともかくこの件が教訓になったのであろう。ケネディ以後の大統領はイランという巨大利権に対して何も言わなくなった。自称人権派ジミー・カーターでさえ、大統領就任後、イランに何もしなかった。植民地支配は搾取の専門家集団であるCIAに任せておけばいいのだから、大統領は何もしなくてよいということだろう。こうして、CIAが植民地で傍若無人に振る舞おうが大統領は口出ししないという流れができてしまった。

 

3.二度と帰らぬ旅

 アジャックス作戦の成功以後、パフラヴィー王はアメリカの全面支援を受けてきた。軍隊はアメリカ式に整えられ、武器も部品もアメリカ製であった。司法、立法、行政もアメリカ式となり、官公庁の各部門にアメリカ人の指導官が置かれるようになった。逆らう国民はCIAを真似してつくったサヴァクによって弾圧し、やり方はCIAの職員が教えた。

 アメリカ(CIA)という教師から教育を受け、パフラヴィー王とその命を受けた内閣はイランを支配し、欧米に石油を安定供給してきた。しかし、それだけアメリカ(CIA)が教育してきたのに、パフラヴィー政府は国民をうまくコントロールできず、1978年には国民の不満が爆発し、デモが頻発している。そのため、アメリカやイランの富裕層たちは、パフラヴィー王の経営能力を疑問視するようになった。「才能ないのではないか」という疑問である。

 忠犬は役に立っているうちは暴れても許される。しかし役に立たないならば捨てられる。これは植民地の国家元首の運命である。いくら安倍晋三が日本の名門の出身で、日本という植民地においてはトップであっても、植民地という井の中の上級国民に過ぎない。

 彼がこれまでいくら宗主国に貢献しようとも、コロナウイルスの混乱の中で管理能力を疑われれば、あっさり切られるだろう。植民地のボスがどれくらいのものなのかは、パフラヴィー王の人生が証明している。日本の首相という地位も、その程度のものでしかない。

 結局、イランの支配層のみならず、宗主国であるアメリカにおいても、シャーはいったん退位する方がいいのではないかという話になった。こうしてモハンマド・パフラヴィーは、長年敵対してきたシャープール・バクティヤールにいったんイランを預け、事態の鎮静化を任せることとなった。

 1979年1月16日、モハンマド・パフラヴィーがイランと別れる日が来た。一時的な休暇が名目であったが、実質的には皆に見放された結果の追放である。大統領であっても殺され、王様であっても捨てられる。それが国家元首という雇われ社長の悲哀である。孤独になった王は、シャー専用機のボーイング727を自ら操縦し、一番目の妻(1948年に離婚)の出身地であるエジプトに、皇后(三番目の妻)や側近とともに亡命した。

 

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亡命するシャー(王)の靴にキスをする衛兵(1979年1月16日)

 エジプトには「兄弟」と呼び合うほどの間柄であったサダト大統領がいた。エジプトのナセルはCIAの援助をもとにエジプトの大統領になった男であったが(第五十六回ブログ参照)、ナセルの下で副大統領をしていたのがサダトであった。ナセルが52歳で急死した後、サダトが大統領に昇格した。

 パフラヴィーとサダトは、お互いCIAの指導下で発展途上国の近代化に尽力してきた仲であったから、気心が知れていたのであろう。つまり二人は、植民地の雇われ社長という悲哀を共有できる仲である。

 

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Mohammad Pahlavi & Anwar Sadat

 かつてのイラン王は、心の友の庇護の下、しばらくエジプトに滞在したが、その後モロッコバハマ、メキシコと転々とした。一カ所にとどまっていると危険であるし、長く居候をして、その国の元首に迷惑をかけるわけにもいかなかったのであろう。

 王がイランから逃亡する前に、多くの富裕層は欧米へ逃げていた。その主たる要因として、パフラヴィー王が中心になって進めたイランの近代化があった。イラン人はパフラヴィー王制の下で、急速に欧米化した。つまりイランの富裕層はドメスティックな金持ちであることから脱却し、子息は欧米の学校へ進学するようになっていた。彼らは不動産や銀行預金などの資産も欧米に持つようになった。皮肉なことにイランの欧米化は、イランの富裕層が簡単に祖国を捨てて欧米に逃げることができるという状態をつくっていた。

 さて、各地を転々としていたパフラヴィー王だが、癌治療のために1979年10月22日にアメリカに入った。既に1978年の秋に福田赳夫と首脳会談をしていた時から体調はよくなかった(第六十二回ブログ参照)。当時も現在も癌治療の最前線はアメリカなのだから、パフラヴィー王のような金持ちが癌治療のためにアメリカに入ることは自然な成り行きだった。

 しかし、これはイラン国民の怒りをかうことになった。このことが1979年11月4日のアメリカ大使館人質事件へと繋がる。もちろん、王のアメリカ入国だけがこの事件の原因ではないが、火種の一つになったことは確かである。

 アメリカでパフラヴィーを受け入れたのがロックフェラーであったが、アメリカとイランの関係は大使館占拠事件の後、悪化の一途を辿っていた。怒りのイラン国民は、元王の身柄引き渡しをアメリカに要求した。アメリカはそれを拒否していたが、モハンマドにとってそうした険悪な空気の中でアメリカに住み続けることは苦痛であった。

 結局、アメリカに住みづらくなった元王は、12月5日パナマへ向った。その後、「兄弟」の間柄であるエジプトのサダト大統領を再び頼った。翌年7月27日、かつてイラン王だった男は、エジプトのカイロで亡くなった。享年60歳であった。

 アメリカの利益のために生き、最後は皆に捨てられた王は、母国であるイランを失い、異国の地を転々とする居候生活の果てに死んだのである。なお、彼が「兄弟」と呼んだ心の友、サダトも翌年暗殺により亡くなった。62歳であった。

 

世界を動かしたロックフェラーの「陰謀の真実」…戦争や軍事クーデターで巨万の利益

https://biz-journal.jp/2017/05/post_19095.html

第六十二回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(13)

1.燃え広がる火事を見ても危機感を抱けない

 第六十回ブログで述べた通り1978年のイランにおいては、コムのデモが発端となり、各都市で反政府デモが巻き起こった。この状況下で1978年8月18日、アーバーダーンの映画館、シネマ・レックスで火災事件が起き、観客数百名が焼死した。火災の原因は事故なのか放火なのかはわからない。放火だとしても、犯人がサヴァクなのかはわからない。しかし、反政府派の人達はサヴァクによる放火事件だと解釈した。

 こうしてイランの各都市ではデモの炎が燃え上がり、1978年9月4日にはテヘランで10万人規模のデモが行われた。8日にはこれを受け、政府はテヘランを含む全国11都市で戒厳令を敷いた。なお、この時日本の福田赳夫首相はイランを訪問し、イランのインフラ建設についてパフラヴィー王と会談をしている。

 

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福田赳夫とパフラヴィー王

 おそらくこの時の福田首相は、自分が会談している相手が4カ月後にイランからいなくなるとは思っていなかったであろう。また、パフラヴィー王もまったく思っていなかっただろう。この時はまだ日本と共同で建設工事を行うという都市計画を真剣に考えていたのである。つまり、王朝自体がなくなるとは、イラン政府も日本政府もまったく考えていなかった。 

 こうした風景は現代でも生じるものであり、歴史は繰り返す。われわれの予測力の乏しさは、いつの時代も変わらないと言える。コロナウイルスについての緊急事態宣言が発令される1カ月前には、まだオリンピックを2020年の夏に開催することについては真剣に考えられていた。現状に危機感を持ち、未来を正しく予測する人はいつの時代もいるのだが、そういう人は少数派なために、多数派から非難される。

 

森喜朗会長が激怒 組織委・高橋理事の五輪“延期発言”に

https://hochi.news/articles/20200311-OHT1T50266.html

 

 後でわかることだが、日イ首脳会談当時のパフラヴィー王は癌の治療中であった。そのため、会談中の王はどこかぼんやりした様子であったそうである。王の癌治療は、後にイランがイスラム国家化することの主たる要因の一つとなる。もちろん、この時にはまだ誰もわからない。

 こうして反政府運動は、政権が危機感を抱くスピードよりも遥かに早く全国に広がっていった。政府が重い腰をあげて対処するよりも、炎が広がるスピードの方が早かったのである。ただ、この時の反政府側勢力は一枚岩からは程遠い状態だった。

 この時、パフラヴィーVSホメイニーという構図は成り立っていない。というのも、野党側はまったく主張を異にする勢力の集合体だったからである。イスラム社会主義を主張するムジャヒディン・ハルク、非スターリン派の共産主義政党フェダイン・ハルク、ソ連から支援を受けていたトゥーデ党(イラン共産党)、モサデクの志を継ぐリベラル派の国民戦線といった勢力がおり、ホメイニー率いるイスラム共和派はその中の一つに過ぎなかった。

 また、イランの中にはペルシャ人以外の民族がおり、それがアゼルバイジャン人、クルド人、バルーチ人、アラブ人、トルクメン人、などであった。彼らはペルシャ語を話すが、それぞれが独自の言語を持つバイリンガルであった。つまり、彼らは学校や会社、自治体などではペルシャ語で会話するが、家に帰ったら自分たちの民族語を話す人達である。つまり、彼らのコミュニティは国家内国家であるから、政権が脆弱化すれば独立運動が勃発することになる。

 イランの内部がバラバラであることは、パフラヴィー政権を不安定ながらも安定的に維持させることに貢献してきた。しかし、各地でバラバラに火が上がることで、政権にとっても収拾がつかないことになった。それぞれのイデオロギーがバラバラでも、王は駄目だという見解では一致するようになっていった。こうして、どのような政治体制が望ましいかは横に置いておいて、ともかく王には反対だということでは一致していったのである。

 

2.後手後手の対応

 都市部では様々な政党や学生がデモを起こすようになり、地方では少数民族独立運動を起こすようになっていった。ただ、当初は民衆の多数派が望む政体は立憲君主制であり、王の廃位ではなかった。パフラヴィー朝では約13年間続いたホベイダ首相(Amir Abbas Hoveyda 1919-1979)の政権が典型的だが、王が任命した首相が政治を担っていた。つまり、内閣は王と米軍の言いなりであった。

 

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Amir Abbas Hoveyda & Mohammad Reza Pahlavi

 民衆はこれに対して、選挙で選ばれた内閣が政治を実行し、王は政治に口出しをしないことを望んでいた。これは宗教界でも同様で、モハンマド・シャリアトマダーリー(Sayyid Mohammad Kazem Shariatmadari 1906-1986)のような大アヤトラも立憲君主制を主張していた。シャリアトマダーリーは若い頃のホメイニーも尊敬していたイランの大宗教家である(後に両者は対立する)。

 

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Sayyid Mohammad Kazem Shariatmadari

 つまりホメイニーのように王の廃位を主張し、宗教家が国家を統治すべきだとする思想は、イランの伝統からすれば少数派に過ぎなかった。ホメイニーは1964年に国外追放処分を受けて以来、一貫して王を廃してイスラム国家を樹立することを主張し、イランの水面下では着実に支持を広げていたが、多数派の国民からすればそれは依然として過激すぎる思想であった。

 しかし、パフラヴィー王による急速な近代化によって貧富の差が拡大し、石油ショックによりインフレとなり、金融引き締めによる建設バブルの崩壊により、70年代後半には政府に対する国民の不満は爆発寸前となった。そこに1978年1月のコムのデモ弾圧事件が起き、8月にシネマ・レックス事件が起きたのである。

 この時、政権が早めに立憲君主制に移行していたら、ホメイニーによるイスラム国家は成立していなかったかもしれない。しかし、シャー(王)が国民戦線のシャープール・バクティヤール(Shapour Bakhtiar 1914-1991)を首相に任命したのは、1978年の12月のことだった。この時には焼け石に水であり、結局シャーとその家族は翌月にエジプトへ逃げることとなる。そして、シャーは二度とイランの地を踏むことはなかった。

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Shapour Bakhtiar

 バクティヤールは、モサデク内閣で労働副大臣を務めた人物で、立憲君主派であった。つまり、イランは王制を維持しつつも欧米から独立し、王は政治に口を出さないという政治的立場であった。当然、モサデク政権をCIAとともに潰したシャーとは長年対立してきた。また貴族である彼の父は、先代王の時代に政府と対立し、処刑されている。

 シャーとしても、通常ならこのような人物を首相に任命することは絶対にない。しかし、このままでは王制が倒れるという危機感から、仕方なく反政府側の大物であるバクティヤールを首相に任命したのである。王は彼を首相に任命することで、燃え盛る反政府運動を鎮静化しようと試みた。しかし、雪崩となった運動はこれでは終わらなかった。

 

3.過激思想は少数派から多数派へ転じる

 シャーの下した苦渋の決断は、時期としてあまりにも遅かった。反政府運動の火が小さかった頃なら、モサデク派の政治家が首相に就任することを民衆も歓迎しただろう。しかし、度重なるデモとその鎮圧が繰り返され、死傷者が多数出た後では、そのような対処では民衆の不満は解消されなかった。少数派に過ぎなかったホメイニーの主張は、戦闘の拡大とともに多数派へと移行しつつあったのである。

 最初は大衆に疎まれていた過激思想は、いつのまにか過激でなくなる。違和感が薄れていくのだ。そしていつのまにか多数派となっている。これは大衆心理のパターンと言える。例えばナチスの主張は最初、ドイツ国民の99.9%にとって受け入れがたい過激思想であった。現に1928年の選挙において、ナチスは12議席しか獲得していない。当時のドイツの国会議席は全399議席であるから、0.03%にしか過ぎない。しかし、それから5年後の1933年の選挙では288議席を獲得している。

 

1932年7月、ドイツの総選挙で、ヒトラーの率いるナチ党が国会議席の第一党となった。

https://www.y-history.net/appendix/wh1504-076.html

 

 イスラム共和国を認めるということは、王制を捨てると同時に民主主義も捨てるということである。それゆえ王も捨てずに民主主義を成立させるという立憲君主制は、イラン国民の多数派からしても、最も現実的で穏当な政治体制に見えた。だから一般大衆のみならず、宗教界の多数派も立憲君主制に賛成であった。王がイスラムの道から踏み外さないように助言し、王の暴挙を諫めることがイスラム法学者の役割だと伝統的に考えられてきたからだ。

 しかし穏当な考えが大衆に広く支持されるのは平時に限られる。穏当な考えは平穏な時代の常識に過ぎず、混乱の時代には過激な思想が魅力的なものとなる。寒い時には温かいスープが魅力的になり、暑い時には冷たい食べ物が魅力的になる。平時には民主主義が当たり前となり、過激思想は大衆の気を引かない。しかし、混乱時には逆になる。

 人心が平穏の時、攻撃的な政治家は疎まれる。しかし、人心が乱れる時、攻撃的な政治家は頼もしく映り、平和を唱える政治家は弱々しい印象を与える。ホメイニーの主張が変化したわけではない。彼は1964年に国外追放されて以来、同じことを繰り返し言ってきた。変わったのはそれを聞く大衆の方だ。

 平穏な時代、それはごく一部の過激派のみの支持を得た。大衆はホメイニーの主張を過激なものとして聞いた。いくらなんでも王を廃位させるというのは過激ではないか。もちろん、王が出しゃばるのは良くないので、王は政治に口出しせず、国民に選ばれた首相が政治を担うべきではないか。イランはやはり立憲君主制がいいのではないか。

 しかし、時代が変わればそのような主張は生ぬいものに聞こえてくる。血で血を洗う闘争の中に身を置くうちに、生ぬるいものでは満足しなくなる。戦乱の世は過激な思想を求める。宗教家は宗教家の本分をわきまえ、あまり政治に深入りするべきではないという穏当な解釈は、戦乱の国民心理を満足させるスパイスに欠ける。

 過激な時代に穏健な賢人は求められない。デモ隊に発砲する王に対して、宗教家が諫めようが何をしようが無駄ではないか。それなら賢者たる宗教家が直接国を治める方がよかろう。神の御意志を最も良く知る者が国家の統治の責任を負うべきである。政教分離などという生ぬるいことを言っている場合ではない。神国に王様も民主主義も不要だ。イスラム法学者の統治こそが神の道だ。

 イラン国民が通常の精神状態なら、そのようなホメイニーの主張は過激思想として受け止めらて終わりであろう。しかし、1978年1月のコムのデモからはじまり、イランはある種の内戦状態に陥った。死人の数がテレビや新聞で毎日報道される。知り合いがデモに行って機動隊に殺された。親戚が死んだ。そうした情報のシャワーをあびているうちに、国民の心理状態は戦争状態となる。

 長年待ち望んだリベラルなバクティヤール政権が誕生したにもかかわらず、この政権はあっというまに終わった。他方、長年過激思想に過ぎなかったホメイニーの主張するイスラム国家は、あっというまに成立した。1979年3月31日、イスラム共和国樹立のための国民投票が行われ、賛成票が98%となる。

 

イランイスラム共和国の日に寄せて

https://parstoday.com/ja/radio/iran-i5101

 

 98%という数字は、イランの大本営メディアが言う数字なので本当かどうかはわからない。しかし、国民の多数派が賛成したことについては本当であろう。この時、ホメイニーの過激思想はイラン国民にとって過激とは思われなくなっており、むしろ正しいものだと思われていたのだ。

 翌日の1979年4月1日、イラン・イスラム共和国の樹立が宣言される。現在まで続くイランの誕生である。